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家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】

家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】:2ページ目

勝頼への出仕と上野攻略。そして武田家の滅亡

1573(元亀4)年、遠征先で武田信玄が病死すると、昌幸は家督を継いだ武田勝頼に仕えることとなった。翌年には、病床にあった父・幸隆が死去し、真田家は長兄・信綱が総領となる。

しかし、1575(天正3)年の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が戦死したため、昌幸が真田家に復して家督を継ぐこととなった。

その後、昌幸は勝頼をよく補佐し、上野国への侵攻を中心に武田家のために尽力する。しかし、天下の趨勢(すうせい)は織田信長の掲げる「天下布武」へと大きく傾いていた。

1582年(天正10)、信長は嫡子・信忠を総大将とし、総勢約10万人の大軍をもって武田討伐を開始。これに対し、高遠城を除く信濃の武田諸城は、ほとんど抵抗することなく降伏した。

こうした状況下、昌幸は完成間もない新府城を捨て、自らの居城・岩櫃城への退却を勝頼に進言した。しかし勝頼は、岩殿城の小山田信茂を頼った。その結果、信茂の裏切りにあい、最期は天目山で自害に追い込まれた。こうして、武田氏は滅亡したのである。

3ページ目 天正正午の乱と第一次上田合戦の勝利

 

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