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敵将・秀吉も認めた!主君・柴田勝家を救うため命を賭した若武者・毛受勝照の最期【後編】

敵将・秀吉も認めた!主君・柴田勝家を救うため命を賭した若武者・毛受勝照の最期【後編】

戦国時代。名を上げ、領土を広げることに夢中な武士たちの中で、ただ一人、主君に真心をつくした若者がいました。その名は毛受勝照(めんじゅ かつてる)。

【前編】に引き続き、主君・柴田勝家に忠義を尽くした毛受勝照の生涯を紹介します。

「我こそ勝家なり」 忠義を貫いた最期

【前編】の記事はこちら↓

「我こそ勝家なり!」主君・柴田勝家を救うため名を偽り討死した若武者・毛受勝照の忠義【前編】

戦国時代。名を上げ、領土を広げることに夢中な武士たちの中で、ただ一人、主君に真心をつくした若者がいました。その名は毛受勝照(めんじゅ かつてる)。わずか25年の短い人生でしたが、彼の生…

それから数年後の1583(天正十一)年のこと。歴史に名を残す大きな戦い――賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが始まります。

この戦は、本能寺の変のあと、天下の行方をめぐって争われた戦でした。織田信長の死後、その後継をめぐって対立したのが、柴田勝家と、信長の家臣から頭角を現した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)です。

戦場となった賤ヶ岳は、琵琶湖の北にある山々の一角。この地をめぐる争いは、のちに秀吉が天下をおさめるきっかけとなる、運命の分かれ道でもありました。

柴田軍は、秀吉の勢いに押され、窮地に立たされていきます。ついに、勝家は覚悟を決めました。

「この命、ここで終えてこそ本望じゃ」

しかし、勝照はそれを止めます。そして、力強く、静かに言いました。

「どうか、生き延びてください。殿にはまだ、やるべきことがございます。ここは、私が行きます!」

勝照は、わずか200の兵を率いて出陣。戦場で、柴田家の旗「金の御幣」を高く掲げました。そして、大声で名乗ります。

「我こそ、柴田勝家なり!」

敵の大軍が一斉に襲いかかります。その間に、勝家は何とか北ノ庄へ撤退できました。

この戦いで、勝照は兄の茂左衛門(もざえもん)と共に、戦場で命を落とします。享年 25歳。彼の忠義は、まるで絵のように、人々の記憶に刻まれました。

2ページ目 秀吉も心を動かされた勝照の忠義と誠実さ

 

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