無数のタコが敵兵を撃退!なんとタコに命を救われた、大阪・岸和田に伝わる戦国武将・中村一氏の伝説
戦国武将の中村一氏(かずうじ)は、とある動物に窮地を救われたという珍しい伝説を持っていました。
その動物はなんと蛸(たこ)でありました。
果たして一氏はどのようにして窮地を救われたのでしょうか。今回は一氏の生い立ちと蛸が一氏を救った出来事を詳しく紹介します。
出自が不明な人物
中村一氏は生まれた年が不明であり、出自も桓武平氏や近江源氏佐々木氏の山崎氏の支流・山崎氏、藤原氏、甲賀五十三家の1つである瀧氏と諸説あるため、はっきりとしていません。
豊臣秀吉に仕え、天正元(1573)年には近江長浜200石を拝領されました。
一氏は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続いた石山合戦の参戦や天正10年(1582)に起きた山崎の戦いで鉄砲隊を指揮する活躍で、着実に武功を重ねていきました。
そして、天正11年(1583)に起こった賤ヶ岳の戦いでの功績により、岸和田城の城主に任命されます。同時に和泉国衆を配下にし、来るべく紀州攻めの備えを任命されました。
三中老に任命される
天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めを経て、一氏は近江国水口岡山城主への任命と6万石を拝領されました。
続く小田原攻めでは、豊臣秀次率いる部隊の先鋒隊として一柳直末(ひとつやなぎ-なおすえ)と共に松田康長や北条氏勝、間宮康俊が守る山中城へ侵攻。途中、直末が康俊の放っ火縄銃によって戦死するも三の丸まで陥落させました。
この後も力攻めを続けた結果、城主の松田康長や間宮康俊を討ち死にさせ、山中城を落城させました。
戦後、この功績により駿府14万石を拝領されます。そして、慶長3年(1598)には五大老と五奉行が意見相違の際の仲裁役を担う三中老に任命されました。
三中老は一氏の他に生駒親正と堀尾吉晴が任命されています。
その後、慶長5年(1600)7月に関ヶ原の戦いが始まる前に病死。家督は長男の中村一忠が継承するも慶長14年(1609)に跡継ぎ不在のまま急死したことで、中村家は断絶してしまいました。