日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【前編】
最初は「軍人デビュー」
桂太郎(かつら・たろう)は軍人出身の政治家で、山縣有朋の懐刀とも呼ばれた人物です。また総理大臣の座にも三回就いており、その在任期間の合計日数の長さはつい最近まで日本の憲政史上最長でした。
日露戦争も乗り切っており、政敵であるはずの西園寺公望との蜜月期間である「桂園時代」を築いたことでも有名です。
まず最初に彼の生い立ちですが、桂は幕末期の長州藩の生まれで、桂家はもともと毛利家の重臣の家柄でした。その先祖は、戦国時代の広島県廿日市にあった櫻尾城の城主・桂元澄で、125石馬廻役という上級武士です。また、母方の叔父である中谷正亮は松下村塾のスポンサーでもあるという血筋でした。
桂は江戸末期に第二次長州征伐で志願して石州方面で戦ったのを皮切りに、戊辰戦争でも敵情視察・偵察・連絡役などをこなしました。戦後は軍功が評されて賞典禄250石を受けています。
先輩たちの引き立てと「ニコポン」
明治維新後、桂はドイツへ留学しています。これは前述の賞典禄を元手にした私費留学で、生活は厳しかったといいます。最初は渡仏したのですが、普仏戦争に遭遇したためドイツに切り替えたという経緯もありました。
桂のドイツ留学に関して外せないのは、かの木戸孝允との交流です。欧米使節団として渡独していた木戸に官費留学へと待遇を切り替えられないかと依頼し、木戸もそれを承諾しました。
最終的に、桂は1870~1873年にかけて、22~25歳の間ドイツで過ごしています。また27歳からも三年間、ドイツ駐劄公使館付武官として渡独しており、軍政・軍事を研究するかたわらヨーロッパ列強の国情と対外政策を学ぶことになったのでした。
ドイツ留学を終えた桂の陸軍入りを斡旋したのも木戸で、その後も桂は軍政をドイツ式に改めるなどの功を挙げて順調に昇進していきました。
このように桂は木戸に対して留学時から恩があったため、木戸への気遣いはかなりのものでした。駐在武官としてドイツに赴任していた頃は、月に一回「木戸尊大人様閣下」と仰々しい宛名で手紙を書いており、木戸夫人にも珍しい土産物を送っていたといいます。
陸軍入りしてからの桂は山縣有朋の子分と見られていましたが、実際、彼はこうした大先輩たちの引き立てによって出世していったと言えるでしょう。
このように、桂太郎という人物は若い頃から人間関係において抜け目がなく、したたかな性格でした。人心掌握術に長けており、ニコニコ笑顔で背中をポンと叩くことで政財界の面々を巧みに説得していたため「ニコポン宰相」とも呼ばれています。
政治家になってからも、議会対策には硬軟取り混ぜて政党領袖と渡り合い、しばしば山縣有朋と暗闘を繰り返していた伊藤博文にも目配りを忘れていません。こうした世渡りの上手さは、豊臣秀吉や田中角栄にも通じるものがあると言えるでしょう。