行くのも、帰ってからも大変だった。日本とヨーロッパをつないだ「天正遣欧少年使節」
みなさんは、「天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)」という単語を聞いたことがあるでしょうか?日本史の授業で習ったことを覚えている方も多いかもしれません。
それよりも、使節のメンバーであった日本人少年4人のインパクトのある名前(漢字+カタカナ)の方を覚えているという方もいるかもしれません。
そこで、今回の記事では、「天正遣欧少年使節」が経験した苦労、そして日本に何をもたらしたのかについて迫ってみたいと思います!
天正遣欧少年使節とは?
天正遣欧少年使節は、九州のキリシタン大名であった大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、日本で初めてヨーロッパを訪問した団体です。
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノという4人の少年が使節、その他に随員が複数名いました。
少年たちの年齢は、わずか13~14歳。いずれもキリスト教の教えを受けた、優秀な少年たちでした。
飛行機はまだない!過酷な船旅でヨーロッパを目指す
天正遣欧少年使節の目的は、日本人にキリスト教をより良く理解してもらうこと、そして同時に日本の文化をヨーロッパに紹介するためでした。天正10年(1582年)、一行は長崎港を出港。当時、飛行機はありませんから、長い船旅のはじまりです。
やっとの思いでまずはマカオに到着。風待ちのため、暮れまで出航することができませんでした。マカオを出発してからも、進路を間違えたり、暗礁に乗り上げそうになったりと苦労はつきません。熱帯域で熱病にかかることもあったといいます。
なんとか南アフリカの喜望峰まわりでポルトガル・リスボンに到着したのは長崎を出港してからなんと2年半後、天正12年(1584年)のことでした。
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