江戸時代の大奥のルールを定めた「大奥法度」とは?華やかな世界の裏には厳しいルールが
長く続いた江戸幕府。そのトップに立つ将軍がいた江戸城には、多くの女性たちが働いていました。
大奥は男子禁止の女性たちの華やかな世界……というイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし、そんな大奥には厳しいルールがありました。
今回は、そんな「大奥法度」について詳しくご紹介したいと思います。
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将軍と関係を持てば ”汚れ者 ” 扱い?大奥の「御中﨟(おちゅうろう)」という役職
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大奥とは?簡単に概要を振り返ろう
大奥は、江戸城本丸の奥にあり、将軍の妻や子ども、また奥女中たちの住むところでした。
最初に女性たちだけの空間を作ったのは、2代将軍・徳川秀忠の妻・お江与(えよ)の方でした。そして、お世継ぎが途切れないようにと女性たちが集められたのは、3代将軍・徳川家光のころでした。
女性よりも男性に興味があったとされる家光を心配し、乳母の春日局が女性たちを集めたのがきっかけです。
「大奥法度」はいつ、だれが定めた?
「大奥法度」が最初に定められたのは、元和4年(1618年)に、2代将軍・徳川秀忠によるものでした。このときには、「男性の立ち入り禁止」や「夜6時以降の奥女中の出入り禁止」などが定められました。
また、将軍家以外で「大奥」という名前を使うことを禁止し、他の大名家では「奥向き」という名称が使われました。そのあと、時代とともに「大奥法度」の内容は加筆されていきました。
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