後鳥羽上皇、ついに挙兵!北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・前編【鎌倉殿の13人】
源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺され、にわかに「主なき宿」となってしまった鎌倉。
臨時に執権の北条義時(ほうじょう よしとき)ら一族が政務を取り仕切っていたものの、実質的には彼らが鎌倉の支配者となっていました。
このままでは、関東が朝廷の支配下より独立してしまいかねない。ここで何とか食い止めるべく、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は義時以下北条一族の追討を図ります。
それが後世に伝わる承久の乱。かつて源頼朝(よりとも)が切り開いた武士の都(幕府)を守り抜けるか、あるいは公家たちによる支配体制に逆戻りしてしまうのか、ここが正念場です。
今回はその前哨戦となった伊賀光季(いが みつすえ)のエピソードを紹介。北条義時の義兄弟として節義をまっとうしたその最期を、お見届けいただければと思います。
決死の覚悟で後鳥羽上皇の呼び出しを辞退
時は承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の討伐を前に、近臣の三浦胤義(みうら たねよし。平九郎)を召し出しました。
胤義はかつて合議制(鎌倉殿の13人)の一人であった三浦義澄(よしずみ)の子で、三浦義村(よしむら)は兄に当たります。
「挙兵に際して、仲間が大いに越したことはない。京都守護職の両名は引き込めないか」
当時、京都守護職には大江親広(おおえ ちかひろ。大江広元の子)と伊賀光季が当たっていました。
「大江はお召しに応じるでしょうが、伊賀は北条の縁者ゆえ応じますまい。いずれにせよ形式的に召し出されて、応じなければ討伐する大義名分が立ちましょう」
胤義の返答に納得した後鳥羽上皇は、さっそく大江・伊賀の両名に使者を発します。大江親広はただちに50騎ばかりの軍勢を率いて直ちに参上しました。
「よう参った。時に云々かんぬんにつき、京と鎌倉のいずれに与するか、今ここで申せ」
畏れ多くも上皇陛下に面と向かって「はい、鎌倉につきます」とは言えず、親広は後鳥羽上皇に味方する旨の起請文をその場で書かされてしまいます。
一方の伊賀光季は後鳥羽上皇の意図を察していたようで、すぐには出向かず慎重に回答しました。
「畏まりました。ただしそれがしは鎌倉の命によって京都守護職を預かっているものですから、まずは鎌倉へ指示を仰いでから参ります」
やはり胤義の申した通りか……後鳥羽上皇は重ねて召し出します。
「特に変な意味ではないし、難しく考える必要はない。上皇陛下が直々のお召しであるのだから、つべこべ言わんでさっさと参れ」
変な意味でないとわざわざ言っている時点で変な意味じゃなかった例しはない……ここで断れば命がないと覚悟の上で、なおも光季は断りました。
「では、まずはどんな意味であるのか詳しくお教えいただき、その上で鎌倉の指示を受けて参上したく思います」
おのれ伊賀め、一度ならず二度までも……ここに後鳥羽上皇は胤義に光季の討伐を命じます。が、今日はもう遅いので討伐は明日に先延ばしします。