お天道様は見てござる…直訴に失敗、処刑された名主・鈴木三太夫と悪徳領主の末路
「の 農民を かばって義民 三太夫」
※神奈川県海老名市「海老名郷土かるた」より
江戸時代、人々を守る大義のために行動した者を義民(ぎみん)と呼んで称えましたが、それは往々にして自分の命と引き換えとなりました。
今回紹介するのは相模国海老名郷大谷村(現:神奈川県海老名市)の名主・鈴木三太夫(すずき さんだゆう)。果たして彼の義挙は、実を結んだのでしょうか。
このまま飢え死にするくらいなら……!
鈴木三太夫は生年不詳、その本名を三左衛門(さんざゑもん)と言い、三太夫はその功績を讃えて死後に贈られた諡(おくりな)と考えられています。
大谷村はそれまで天領(てんりょう。幕府の直轄領)でしたが、延宝2年(1674年)に旗本の町野壱岐守助右衛門幸宣(まちの いきのかみすけゑもんゆきのぶ)が領主に赴任してきました。
「民は活かさぬよう、殺さぬように、じゃ」
とか何とか、着任するや年貢を厳しく取り立てるようになり、村民の暮らしは困窮していきます。
「年貢が重すぎて、皆が困っております。どうか、お情けを頂けませぬか」
「ならんならん!『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』と申すではないか、義務も果たさず不平ばかり申すでないわ!」
ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど採れる……圧政に苦しめられた三左衛門たちは、それでも歯を食いしばって耐え抜きます。
月日は流れて天和3年(1683年)、町野壱岐守が隠居して、その子の町野左門幸重(さもんゆきしげ)が後を継ぎました。
これはチャンス!と思った三左衛門は年貢の減免を懇願しますが、父の薫陶を受けたであろう左門はこれを拒絶。
「少しでも手心を加えればつけ上がるのが下民の性と申すもの……ならぬならぬ!」
と思ったかどうか、町野左門は父以上の苛政をもって臨むようになってしまい、折悪しく凶作に見舞われ、餓死する者まで出てしまいました。
2ページ目 もう我慢の限界だ。飢えて死ぬのを待つくらいなら…