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お天道様は見てござる…直訴に失敗、処刑された名主・鈴木三太夫と悪徳領主の末路

お天道様は見てござる…直訴に失敗、処刑された名主・鈴木三太夫と悪徳領主の末路

「……もう我慢の限界だ。このまま飢えて死ぬのを待つくらいなら、一か八か、ご公儀(幕府)へ直訴して、悪徳領主を辞めさせるよりあるまい!」

村人からはそんな声も上がるようになり、名主として三左衛門が大谷村の代表を申し出ます。

「ならば、その役はわしが引き受ける。皆に連累(れんるい)が及ばぬよう、お役人に何を訊かれても『三左衛門が一人でやった』と答えるのじゃ」

「「「名主さま……!」」」

しかし密告によって直訴の計画はあっけなく露見。謀議の中に密偵が紛れ込んでいたのか、あるいは平素から密告が奨励されていたのかも知れません。

ともあれ三左衛門は逮捕され、貞享元年(1684年)4月27日、今里(同市内)の代官所で斬首されてしまいます。

二人の息子も連帯責任で処刑され、咎の及ばぬようあらかじめ離縁しておいた妻も自害して夫と子の後を追ったのでした。

エピローグ

かくして力づくでもみ消されてしまった町野父子の悪政三昧でしたが、天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさずとはよく言ったもので、事件から十数年の歳月を経た元禄14年(1701年)8月5日、町野左門は改易(かいえき。領地を没収)されてしまいます。

その理由は「これまでの悪政が露見した」とか「(病床の父を十分に見舞わなかった)親不孝の罪」などと言われ、身柄は加賀国大聖寺新田藩(現:石川県)のにお預けに。

「あぁ、死を前にして御家の没落を見るとは……」

流されていった息子を見送るように9月25日、町野壱岐守は死去。町野左門も宝永元年(1704年)5月20日、父の後を追うように配流先で亡くなりました。

「「「やったぁ……ざまぁ見さらせ!」」」

たとえ悪事が見逃されたように思えても、やはりお天道様は見てござる……鈴木三太夫一家の墓は海老名市内の妙常寺にあり、今も郷土の人々を見守り続けています。

※参考:

 

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