城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【上】
よく「女は家を守るもの」と言いますが、大河ドラマで有名となった井伊直虎(いい なおとら)をはじめ、戦国時代には女性が家督を継承して一国一城を切り盛りする事例が少なくありませんでした。
今回はそんな一人、遠州曳馬の女城主・お田鶴(たづ)の方のエピソードを紹介したいと思います。
おままごとのような政略結婚
お田鶴の方は天文十九1550年ごろ、三河国宝飯郡上ノ郷(かみのごう。現:愛知県蒲郡市)城主・鵜殿長門守藤太郎長持(うどの ながとのかみ とうたろうながもち)の娘として生まれます。
母は東海地方に勢力を伸ばした守護大名・今川義元(いまがわ よしもと)の妹で、鵜殿家は祖父・鵜殿長将(ながまさ)の代から今川家に仕える譜代の忠臣として、篤い信頼を得ていました。
すくすくと成長したお田鶴は、まだ10歳にもならない幼さで遠江国曳馬(ひくま。現:静岡県浜松市)城主・飯尾豊前守善四郎連龍(いいお ぶぜんのかみ ぜんしろう つらたつ)の元へ嫁ぎます。
飯尾家も鵜殿家に劣らず譜代の忠臣で、曾祖父・飯尾長連(ながつら)より今川家に仕え、連龍で四代目という筋金入り。忠臣の家同士で結びつきを強めて今川家を盛り立てようとする、いわば政略結婚でした。
また、父・長持が弘治三1557年に没し、まだ若い長兄・鵜殿長門守藤太郎長照(ながてる。長門守と藤太郎は世襲)が家督を継承したばかりなので、飯尾家の支援を受ける意図もあったでしょう。
ちなみに、連龍には前妻がいたのですが死別したようで、遺された息子の辰之助(たつのすけ)はお田鶴の方とほぼ同年代。辰之助にしてみれば、継母と言うより姉か妹のような感覚だったことでしょう。
「辰之助殿、これからは妾(わらわ)が継母(かか)にございますよ」
「……えぇ……?」
そんな御飯事(おままごと)のような家族に転機が訪れたのは永禄三1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦いでした。