西郷と上野の深い関わり。薩摩藩士だった西郷隆盛の銅像が東京・上野にある理由とは?
幕末、倒幕に尽力した「西郷隆盛」。維新三傑にも数えられる彼の勇姿は東京・上野にある上野恩賜公園で確認することができる。
薩摩藩(鹿児島県)の下級藩士の家に生まれた西郷の銅像がなぜ遠く離れた上野の地に建立されているのか。その理由を皆さんはご存知だろうか?
戦場となった幕末の上野
1868年に始まった旧幕府軍と新政府軍の戦い(戊辰戦争)は、鳥羽・伏見における新政府軍の勝利で幕を開けた。勢いに乗った新政府軍は江戸へ進軍。しかし、新政府軍の参謀であった西郷と旧幕府軍陸軍総裁の勝海舟が会談、江戸城は無血開城の運びとなる。
水戸への謹慎が決まった徳川慶喜であったが、一部の幕臣や藩士は「彰義隊」と称する組織を結成。本営を「上野」の徳川家菩薩寺である寛永寺に置き抗戦の構えを見せる。
5月15日。西郷を含めた新政府軍と彰義隊の戦闘が勃発し、現在の上野恩賜公園一帯が戦場となった。戦力で勝る新政府軍は彰義隊を圧倒。この戦いによって新政府軍は江戸より西を掌握した。
西郷と上野という土地にはとても深い関わりがあったのである。
西郷像の建立
1877年に地元鹿児島で命を落とした西郷。それから21年後の1898年(明治31年)、現在の上野恩賜公園内に銅像が建てられた。
これは、上述の江戸城無血開城によって江戸の町を戦火から守った功績を認められた証といわれており、彰義隊と衝突した舞台である上野が建立地に選ばれた。西郷像の裏手には彰義隊の墓も存在している。
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