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そこまで過酷ではなかった?徳川家康のあまり知られていない人質時代を紹介

そこまで過酷ではなかった?徳川家康のあまり知られていない人質時代を紹介

人質になった理由

天文11年(1543年)に産まれた家康の幼い頃は竹千代と呼ばれていました。

その竹千代がなぜ人質になってしまったのかというと家中の分裂が原因でした。

当時、後に徳川家となる松平家は竹千代の祖父松平清康の暗殺によって勢力が衰えていました。竹千代の父、松平広忠の代になると多くの家臣が広忠の元を離れていきました。

それを見逃さなかったのが織田信長の父織田信秀で松平家が治める三河国へ侵攻して来ます。

この混乱の中、従う兵も少ない広忠は海道一の弓取りと呼ばれていた今川義元を頼ります。しかし、義元の力を借りるにはそれ相応の対価も必要だったこともあり、広忠は竹千代を人質にすることで力を借りることができました。

織田、今川と転々とした竹千代

天文16年(1547)、6歳の竹千代は今川家へ人質に行く予定でしたが、竹千代を護送していた戸田康光が裏切り信秀の元へ行ってしまいます。康光が裏切ったので竹千代は織田家の人質となってしまいます。

このことに怒った義元は信秀を攻め続けます。そして、天文18年(1549)に安祥城を攻略すると城主であった信長の兄、織田信広を捕虜として拘束します。

義元と信秀は信広と竹千代を交換したことにより、今川の元へ竹千代は人質へ行きます。織田家の元には2年間人質として過ごしており、この間に信長と面識があったのではないかとされています。

そして、父の広忠は同年に亡くなっており、松平家は竹千代が人質になっているので当主不在のまま存続することになります。

3ページ目 竹千代の人質生活

 

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