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人質の身でありながら事件解決に尽力!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その3

人質の身でありながら事件解決に尽力!江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛その3

ロシアと日本の間に立って交渉

ロシアへ連れていかれた嘉兵衛は良い待遇を受け、嘉兵衛からも正月に日本酒を振る舞うなどしてリゴルドらとの相互理解を深めます。文化10年(1813)、嘉兵衛とリコルドらはようやく日露交渉のために船で国後島へ向かいます。

日露間の文書のやりとりを、少しずつロシア語を学んだ嘉兵衛が間に立って取り持ち、両国のわだかまりを解いた事でようやくゴローニンらは解放されました。そしてまた嘉兵衛も日本に還る事ができたのです。嘉兵衛の尽力があってようやく、ゴローニン事件は解決したのでした。

故郷・淡路島に尽くした余生

日本に戻った嘉兵衛はしばらく箱館に暮らしましたが、老年となった嘉兵衛は体調が芳しくなく、文政元年(1818)に生まれ育った故郷・淡路島に帰りました。嘉兵衛にとって淡路島は少年期に過酷ないじめを受けた苦い記憶の残る土地でしたが、彼は淡路島のために私財を投じて灌漑用水工事や港の整備に尽力しました。彼は淡路島の沖いっぱいに咲く黄色い菜の花の美しさが大好きで、どうしても嫌いにはなれなかったのです。

文政10年(1827)、徳島藩主に功績を称えられた嘉兵衛は、直後に体調が悪化し59歳の生涯を終えました。商売に関してもゴローニン事件に関しても、人徳によって人の心を動かし、成功を導き出し続けた生涯でした。

参考文献:生田美智子「只天下のためを存おり候 高田屋嘉兵衛 」ミネルヴァ書房

 

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