新一万円札の顔!日本資本主義の父、渋沢栄一って?その生涯を分かりやすく解説 その2:2ページ目
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明治政府に出仕
西洋見聞を終え明治維新後に帰国した栄一は、徳川家に付いて静岡県に移ります。その地において栄一はさっそく、商法会所という日本初の株式会社と言われる組織を作りました。そしてこれがきっかけで政府から声がかかって、栄一30才の頃、ついに明治政府に出仕する事に決まったのです。
栄一は新政府において大蔵省に配属され、おもに財政の改革に尽力します。しかし軍備費をめぐって諍いが勃発し、認められなかった栄一はすっぱり大蔵省を辞めてしまうのです。
実業家に転身、500以上の会社の設立を援助!
大蔵省を辞めた栄一が歩みを止めることはありませんでした。一民間の実業家として、「第一国立銀行(現在のみずほ銀行」の総監役に着任したのです。その第一国立銀行を拠点にして株式会社組織による新しい企業づくりに力を入れ、栄一が生涯に設立と育成に携わった企業の数はなんと500以上にものぼると言われています。
その企業の例としては、例えば・・・現在の東京ガスのさきがけとなる「東京瓦斯」、現在の東京海上日動のもとである「東京海上保険会社」など。誰もがその名を知っている、私たちに身近な企業ばかりですね!
栄一が日本経済の発展に与えた影響は数知れず。今回新紙幣の一万円札の顔に選ばれたのも頷けます。
今回は新一万円札の顔となる渋沢栄一の生涯を簡単にご紹介しましたが、渋沢栄一という人物が少しでも皆さんにとって身近に感じられれば幸いです。
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