仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(中):3ページ目
越後武者の意地を見せ、城長茂かく戦えり
朝政らの放った飛脚によって、幕府に長茂謀叛の報せがもたらされたのは2月3日、鎌倉中が大騒ぎとなったそうです。
混乱の中、朝廷では「縁起が悪い」と思ってか2月13日に改元が行われ、正治三年から「建仁元年」となったことから、長茂の謀叛は後世「建仁の乱」と呼ばれるようになりました。
この期間中、長茂らは山中に隠れ潜んでゲリラ戦を展開、神出鬼没のヒット&アウェイ(攻撃してはすぐ逃げる)を繰り返して鎌倉方の朝政らを悩ませましたが、やがて徹底的な捜索によって大和国吉野山(現:奈良県と和歌山県の県境にまたがる山岳地帯)に潜伏していることが発覚。
2月22日、もはや退路を断たれた長茂らは鎌倉方と決戦に臨み、あえなく玉砕。長茂らの首級は京の都に晒され、2月29日には長茂の甥で小太郎資盛の弟に当たる小二郎資家(こじろうすけいえ)と小三郎資正(こさぶろうすけまさ)、そして奥州藤原氏の生き残りとして京に潜伏していた藤原四郎高衡(ふじわらの しろうたかひら)も討ち取られ、京の都から梶原景時のシンパ勢力が一掃されたのでした。
(※機を見るに敏なる公家たちは、景時が殺された時点でとっくに見限っています)