実は4度も名前を変えていた徳川家康。家康はなぜ「松平」から「徳川」に改姓したの?:2ページ目
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「素性がはっきりしない」という理由で国主になれなかった家康
徳川家康の父・松平広忠は、現在の愛知県岡崎市にある三河岡崎城の城主でした。その嫡男として生まれた家康は、6歳の時に織田信長の父である信秀の人質となり、さらに今川義元の人質とされたこともありました。
彼に転機が起こったのは、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたことでした。「元康」と名乗っていた家康は、今川義元から1字取った「元」の字をを捨てて「家康」に改名し、いわば今川氏への服従関係からの独立を宣言したのです。
さらなる改名(改姓)は、家康が24歳で三河守に任じられたときのこと。国主となるためには朝廷の許可が必要不可欠でしたので、家康も朝廷に「三河の国守に任じてほしい」との申請をしました。
ところが
「家康は氏素性がはっきりしないし、先祖に国主となった者もいないではないか」
という理由で断られてしまったのでした。
家康、名字を変えて三河守に!
そこで家康は、問題となった自分の氏素性を「きちんとしたもの」にして、なんとしても朝廷に自分を国主として認めてもらおうとします。
彼は摂関家の近衛前久(このえまえひさ)に依頼し、古い記録から
- 松平氏の祖とされる世良田義季が『得川氏』を名乗っていた
- 新田氏系の『得川氏』が『藤原』の姓を名乗ったことがある
- 家康の先祖が住んでいた徳河郷にちなんだ『徳川氏』は、元々は源氏の家系で、総領家は途中で藤原氏になった
という系図(真偽のほどは不明)を探させ、清書した上で朝廷に提出させました。おかげで家康は、彼個人のみという条件で「徳川」へ改姓(復姓)することが認められ、晴れて従五位下・三河守に任じられたのでした。
天下人たちはその地位を正式に認めさせるためなら、名前を変えることすらいとわなかったようですね。
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