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悲劇の聖女・井上内親王の伝説。謀略と裏切り、理不尽な死からまさかの結末!?

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夫の皇位継承、そして不思議なわらべうた

そんな神護景雲四770年、皇位継承者である皇太子を定めないまま、女帝・称徳天皇が薨去してしまいます。

ここでまた有力貴族たちによる後継者争いが起きるのですが、最終的には何かと都合のよさげな白壁王を天皇陛下に即位させます。時に宝亀元770年(※神護景雲から改元)、後の光仁天皇です。

その正妻である井上内親王は皇后となったのですが、このころ、都ではこんなわらべうたが流行っていたそうです。

♪葛城寺(かずらきでら)の前にありや、豊浦寺(とゆらでら)の西にありや、おしとど、としとど、桜井に白壁沈(つ)くや、よき壁沈(つ)くや、おしとど、としとど、然(しこう)しては、国ぞさかゆるや、吾(あ)が家よぞさかゆるや、おしとど、としとど……♪

「しとど」とは「びしょぬれ」を意味し、ごく大ざっぱに解釈すれば「壁が井戸の水に浸かってびしょぬれになれば、国が栄える、家が栄える」、つまり白壁王(光仁天皇)と井上内親王の二人がよい政治をしてくれる、といった期待を意味します。

昔から、時おりこうした暗示的な歌が流行しますが、子供たちが朝廷の内部まで知った上で作ったとは考えにくく、白壁王を猛烈プッシュしていた貴族たちが、世論形勢のために流行らせたのかも知れませんね。

翌・宝亀二771年には長男の他戸親王が皇太子に立てられるなど順風満帆、井上内親王は人生の絶頂期を迎えていました。

謀略と裏切り、理不尽な悲劇の末路

しかし、いいことは長く続きません。

宝亀三772年3月、井上内親王は「光仁天皇を呪い殺そうとした(巫蠱の罪・ふこ)」という言いがかりにより、いきなり皇后の地位を奪われてしまいます。

追い討ちをかけるように同年5月、息子の他戸親王も「井上内親王の子だから」というとばっちり以外の何者でもない理不尽な罪で皇太子の位を奪われた上、名前も「庶人(もろひと)」に変えさせられてしまいました。

つまり皇族としての身分まで奪われてしまったのですが、そこまでの重罪であるにもかかわらず、井上内親王・他戸親王の側近たちはお咎めなしであることから、周囲の裏切りがあったものと考えられています。

さらに宝亀四773年10月、光仁天皇の姉でご不例(病気)となっていた難波内親王(なにわないしんのう)を呪ったという罪で、母子ともども大和国宇智郡(現:奈良県五條市)に幽閉され、宝亀六775年4月27日、母子同時に亡くなったそうです。

この不自然きわまる転落劇は、朝廷内部で起きていた皇位継承者争いと無関係ではなく、光仁天皇の異母兄である山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)を皇太子に立てたい勢力による謀略と考えられます。

時に井上内親王は享年59歳、他戸親王は享年15歳という若さでした。

3ページ目 怨念で竜に変身!?暴風雨と名誉回復

 

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