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関東最弱?とんでもない!鎌倉まで攻め込んで来た里見一族~大永鎌倉合戦~

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玉縄の首塚・戸部川の合戦

 

さて、そんな激戦地の一つに戸部川(現:柏尾川)が挙げられます。

『里見軍記』には詳細な記述がありませんが、そのほとり(鎌倉市岡本)には玉縄首塚が鎮座しており、この辺りで里見・北条の両軍が激突したと言われています。

現地には首塚と伝わる五輪塔を囲むように石碑や卒塔婆、六地蔵さまが立ち並び、見る者に「ここで何かがあった」事を感じさせます。

石碑の説明によれば、大永六年11月12日、鎌倉に攻め込んで来た里見義弘(※義豊の誤り)に対して、玉縄城主・北条氏時(早雲の孫)は大船(現:鎌倉市大船)の甘糟(あまがす)氏、渡内(現:藤沢市渡内)の福原氏と共に迎撃しました。

戸部川のほとりで数回にわたる戦闘の末に里見軍を撃退、北条軍は甘糟氏以下35名の戦死者を出し、福原氏も負傷した一方、里見軍の死者は数知れず……と伝わります。

しかし、里見軍が撤退した理由は鶴岡八幡宮の火事であり、決して弱かった訳ではないのは、これまでの戦いぶりから明らかです。

平和への願い・怨親平等の精神

かくして里見軍の首級と引き換えに返還された甘糟氏らの首級が供養される玉縄首塚ですが、毎年8月に「首塚まつり」が行われるなど、折にふれて故郷を死守した武士たちが偲ばれています。
※平成30年は8月19日(日)開催、例年その周辺(対岸に鎮座する鹽竈神社など)で、屋台も出ています。
玉縄首塚まつり

ところで、石碑の一番上に「怨親平等」という文字が刻まれていますが、これは「敵も味方も平等」という意味で、「事情ゆえに殺し合わねばならなかったけど、死んだらこの世の争いから解き放たれ、誰もが幸せになって欲しい」そんな願いが込められています。

「人類の歴史は戦争の歴史」とも言われますが、平和を守るため、たゆまぬ努力の必要性を首塚は訴え続けているかのようです。

トップ画像:川瀬巴水「鶴岡八幡宮」部分

 

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