紙芝居屋の意外な歴史【2】ピンチをチャンスに変えた結果、紙芝居屋のおっちゃん誕生!:2ページ目
飴売りになった紙芝居屋に、再びピンチが
では、なぜ飴が選ばれたのか。いろいろな証言があるものの、明確な理由はわからないのが正直なところです。しかし「飴売り」をビジネスモデルにした可能性が高いことは推察できます。江戸時代から明治時代にかけて全国に広まった飴売りは、当時の日本人にとってなじみ深い存在だったと考えられるのです。
また、お得意様である子どもの気を引けるという算段もあったかもしれません。
こうして飴と結びつき、街頭へ飛び出した紙芝居屋ですが、すぐ壁にぶつかります。なんと警察に目を付けられたのです。
「紙芝居の内容が低俗で、子どもにとって有害だ」などの理由で、取り締まられるようになったのです。実際、紙芝居を演じただけで警察に捕まった紙芝居屋もいました。
これでは商売あがったり。そこで紙芝居屋たちは知恵を絞り、新しいスタイルを生み出しました。紙人形はやめて、人物と背景を書いた一枚絵を数枚用意し、それをめくりながら語るというものです。警察に捕まりそうになったら、「いえいえ、紙芝居じゃありませんよ。人形じゃないでしょ」と言い逃れることができます。
そうしてやり過ごしているうちに、一枚絵の紙芝居が子どもに定着していきました。そして「黄金バット」で人気に火がつき、次々作品が作り出されるようになります。やがて、東京で誕生した紙芝居は日本全国へと広まっていきました。
そして飴売りスタイルの商売はそのままに、時に「低俗」のレッテルを貼られながらも、子どもの娯楽の王様となっていったのです。
ここでまた紙芝居屋の変化を時代順に整理しておきます。商売としての変化です。
寄席芸人(写し絵/立絵紙芝居)
↓
テキヤ傘下の芸人(立絵紙芝居)
↓
飴を売る行商人(立絵紙芝居/平絵紙芝居)
このような流れを経て、正体は飴屋である紙芝居屋が完成しました。
不況と取り締まりの影響で紙芝居のスタンダードができたとは、なんとも皮肉な話です。しかしピンチをチャンスに変えるたくましさが、その後全国でブームを巻き起こす街頭紙芝居を成長させたのでしょう。
参考文献:
『ものがたり 芸能と社会』小沢昭一(白水社)
『飴と飴売りの文化史』牛嶋英俊(弦書房)
『紙芝居昭和史』加太こうじ(立風書房)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)
『紙芝居の歴史を生きる人たち 聞き書き「街頭紙芝居」』畑中圭一(子どもの文化研究所)
『紙芝居文化史 資料で読み解く紙芝居の歴史』石山幸弘(萌文書林)