百人一首に歌を取り上げられた天皇にはある共通点があった:平安時代編:2ページ目
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光孝天皇
君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ
(画像出典:Wikipedia-光孝天皇)
前項の陽成院の退位のために50代半ばにして新天皇に即位したのは、15番目に歌を取り上げられた光孝天皇でした。仁明天皇の第3皇子・時康(ときやす)親王として誕生した彼は、即位直前の53歳までは小松殿と呼ばれる宮中の一間でつつましく暮らしていました。
幼い頃から学問や芸術方面に優れた聡明な人物で、『徒然草』の176段には、小松御門(こまつのみかど)と呼ばれた光孝天皇が、天皇に即位した後も不遇の時代を忘れないようにと、かつて自分が暮らしていたススのこびりついた部屋をそのままにしておいたという記述が見られます。
(画像出典:ダ鳥獣ギ画)
深い繋がりのある今回の2人の天皇ですが、実は陽成院には乳兄弟殴殺事件を起こしたという噂だけでなく、精神を病んでいたという説や、度々奇行の見られる暗君だったという説がまことしやかに伝わっています。
しかし彼の退位後に光孝天皇が即位し、その次に臣籍降下からの皇籍復帰を経て宇多天皇が即位したことで、皇統が完全に文徳→清和→陽成の嫡流から傍流の光孝→宇多→醍醐に移ったことは、注目すべき点です。
実は陽成院暗君説は、彼の母・高子とその兄で摂政の基経の仲が悪かったことから、基経が陽成院と高子を排除し、自分に都合の良い光孝天皇を立てることを正当化するために流した噂だったとも言われているのです。
果たして真相はどちらだったのでしょうか?
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