手洗いをしっかりしよう!Japaaan

小倉百人一首成立は動乱の時代!時代の主役たちを支えた女房の和歌3選

小倉百人一首成立は動乱の時代!時代の主役たちを支えた女房の和歌3選:2ページ目

皇嘉門院別当

88番「難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)は、崇徳院の中宮・聖子(皇嘉門院)に仕えた女官です。本名や生没年などは知られていませんが、父は太皇太后宮亮・源俊隆、祖父は大蔵卿・源師隆ということが分かっています。

彼女の主人である中宮聖子は、摂政・藤原忠道の娘で、摂政・藤原兼実の姉でした。
百人一首に取り上げられている別当の歌は、中宮の弟である兼実が右大臣だった時に開催された歌合せで詠まれた歌であることが、出典の『千載和歌集』の詞書から分かります。

画像出典:小倉百人一首殿堂 時雨殿

殷富門院大輔

90番「見せはやなおしまのあまの袖たにも ぬれにそぬれし色はかはらす

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)は、後白河天皇の第一皇女で、百人一首にも取り上げられている式子内親王の姉である亮子内親王(殷富門院)に仕えた女官です。

(画像出典:Wikipediaより『銅板百人一首(1989(明治22)年刊行』)

生没年ははっきりとは分かっていませんが、藤原信成の娘で、大治5(1130)年〜正治2(1200)年頃に生きていた人であることが知られています。

『千載和歌集』『続後撰和歌集』をはじめとする勅撰集に多数歌を取り上げられるなど、優れた歌人として知られ、百人一首の撰者である藤原定家や寂蓮、西行などの著名な歌人とも交流がありました。

彼女と並ぶ女流歌人と呼ばれた小侍従という女官とは、ライバルであり友達でもある関係でした。時には2人で夜通し歌を詠み合ったり、歌人仲間の男性たちを誘って名月の夜に小侍従の家を突撃アポなし訪問するなどの様子が、彼女の家集『殷富門院大輔集』から見られます。

高貴な女性のまわりには優秀な女房が

紫式部や清少納言が活躍した時代から、天皇の后や皇女などの高貴な女性たちの周りには、優れた教養のある女房たちが仕えていました。彼女たちには主人の身の回りの世話をするだけではなく、その教養を活かして主人を楽しませるという仕事もありました。

激動の時代を生きた歴史の主役たちも、女房たちに気をまぎらわせてもらったり、時には癒されたりすることもあったのかも知れませんね。

 

RELATED 関連する記事