明治神宮に祀られる昭憲皇太后はなぜ「昭憲皇后」ではなく「皇太后」なの?:2ページ目
皇后ではなく皇太后と称される理由
昭憲皇太后は嘉永3(1850)年4月17日、左大臣・一条忠香(ただか)の三女として誕生され、大正3(1914)年4月9日に64歳で崩御されました。お亡くなりになったとき、夫である明治天皇は既に崩御されていて、実子のいなかった昭憲皇太后は明治天皇の側室が産んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子としていたため、「大正天皇の母」という意味で「皇太后」と称されていました。
Image:昭憲皇太后 – Wikipedia
昭憲皇太后が崩御されると、当時の宮内大臣は彼女の追号を大正天皇に上奏しました。ところがここで、ちょっとしたミスがありました。何と!宮内大臣は、昭憲皇太后の身位を「皇太后」から「皇后」に改めず「皇太后」としており、大正天皇もそれをそのままご裁可してしまったのです。
そして彼女は明治天皇と共に明治神宮に祀られたのですが、この時の御祭神名も「昭憲皇太后」のままとされてしまったのでした。
このことは、ご鎮座寸前の大正9(1920)年に問題となり、「昭憲『皇太后』から昭憲『皇后』に改めるべきではないのか?」と明治神宮の奉賛会会長より宮内大臣へ意見が出されました。
しかし、
「天皇よりお許しがあったものは、間違っていても変更できない」
「既にご神体に御祭神名が記されているため、御鎮座の日までに新たに作り直すことは不可能」
といった理由で、訂正することはできませんでした。
その後も何度かこの件は問題視され、明治神宮の奉賛会から宮内庁へ意見が複数回にわたり出されてきましたが、2017年現在も改められることはないままとなっています。
まさか崩御後にご自身の追号についてこのような議論が巻き起こるとは、昭憲皇太后ご本人もさぞかしビックリしていらっしゃることでしょう。私達も既に「昭憲皇太后」とお呼びすることに慣れてしまってはいるものの、今後何かの機会に「昭憲皇后」と改められる日も来るのかも知れませんね。
参考:明治神宮公式HP