『豊臣兄弟!』あさひ犠牲の天正地震の悲劇は序章にすぎない!豊臣の権威を砕く「二度目の大地震」という絶望:4ページ目
地震の事後処理で秀吉への不満が増大
秀吉は、木幡山への新城(現在の伏見桃山城の原型)再建を命じ、諸大名に普請を割り当てました。
このことは朝鮮出兵(文禄の役)の戦費・人的負担が続く中での追加負担となり、大名や領民の不満は増大。朝鮮出兵の講和交渉(明・朝鮮使節との交渉)も停滞・決裂を招くことなったそうです。
「皆のための復興より、自分の権威回復を優先した対応が、民心の離反を招いた」と指摘されている秀吉の事後処理。なんだか、現代にもあるような話ですね。
そして、これらのことが慶長の役(第二次朝鮮出兵)へとつながり、さらに国力も消耗。
これらの失策は、「豊臣政権に不満を持つ人々の心が、徳川へ移り始めたきっかけ」となり、豊臣政権の崩壊と徳川政権の誕生を招くことになりました。
豊臣政権の崩壊に関して、こちらの記事でも紹介しています。
どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは
一方、家康の動きは…
秀吉の大被害に比べると、家康の関東領国はほとんど被害を受けませんでした。畿内が混乱する中で、家康は力を温存することができたようです。
秀吉が、豊臣政権の再建と戦争継続に追われる一方で、家康は領国経営を着実に進め、国力を蓄える時間を得ました。
ちなみに、約260年にわたり尾張徳川家の居城となった名古屋城は、地盤的にも最高だったとか。家康は、秀吉の城崩壊から堅牢な城の大切さを学んだのでしょうか。
名古屋城は清洲越し以降、宝永地震(一七〇七年)、安政東海地震(一八五四年)、濃尾地震などの大地震に見舞われた。しかし、その際の被害は、石垣や土塀、櫓の一部にとどまっている。
<備える>名古屋大減災連携研究・福和伸夫教授 災とSeeing(1)清洲越し 「事前復興」家康の先見(中日新聞)
最後に…
『天正地震』『慶長伏見地震』は、「秀吉を翻弄した大地震」として、豊臣政権の権威失墜と財政悪化を加速させました。
秀吉は約2年後の1598年に死去。政権は急速に不安定化していきました。
「豊臣兄弟!」も残すところ8話くらい。最終回48話は、連年通り12月中旬くらいと予測されています。
『旭の輿入れ』から、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉の勢力も徐々に暴走を始め、危機が訪れていくのでしょうか。
主人公の秀長は天正19年(1591)1月22日に病死しているため、
文禄5年(1596)『慶長伏見地震』文禄5年(1596)なので、そこまでは描かれないかもしれません。
キラキラと輝き少年漫画のように希望いっぱいので始まった兄弟のサクセスストーリーでしたが。
「万事円満な世」を目指してきた秀長も、「大切な人」として家族や家臣の名を挙げていた秀吉も。
いざ太閤になると、「家」の存続だけを優先するようになり、大切な存在を犠牲にしていく。
「家を守る…それが何だというのじゃ!」という寧々(浜辺美波)の叫びが、蘇ります。
「豊臣兄弟!」に関する話題は、以下の記事もオススメです。ぜひ合わせてご覧ください。
【豊臣兄弟!】あさひ&夫・吉成はその後どうなった?用済みとされた数正…史実での切なすぎる結末
『豊臣兄弟!』しぶとく再登場!愚将・織田信雄、なんと江戸時代まで悠々自適に生き抜いた驚きの生涯
参考:
・『今こそ知っておきたい災害の日本史』岳真也(PHP文庫)
・災とSeeing(1)清洲越し「事前復興」家康の先見(中日新聞)
・日本史を地学から読みなおす (講談社現代新書 2795)鎌田浩穀
・『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)磯田道史




