『豊臣兄弟!』あさひ犠牲の天正地震の悲劇は序章にすぎない!豊臣の権威を砕く「二度目の大地震」という絶望:3ページ目
二度目の『慶長伏見地震』で豊臣政権崩壊へ
さらに、10年後、秀吉の運命を変える大地震が起こります。
文禄5年(1596)に起こった『慶長伏見地震』です。
山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震で、推定マグニチュードは7.5前後.
畿内の広範囲で震度6くらいの揺れで、死者は京都・堺だけで1000人以上(より多いとする説も)に上りました。
地震が起こったのは深夜で、豊臣秀吉は自身の隠居城である指月伏見城(現在の京都市伏見区付近)に滞在していたそうです。
天守や御殿は倒壊し、城内で数100人(記録によっては600人前後)が圧死しましたが、秀吉本人は無事でした。
秀吉は、「寝ていた大殿で幼い秀頼を抱えて庭に飛び出した」「倒壊を免れた台所で一夜を過ごした」といった記録が残っているそうです。(『日本西教史』(ジャン・クラッセ著、または関連するイエズス会の書簡・年報)
記録は宣教師が現地の報告を基に書いたもので、一次的な目撃に近い記録と考えるとか。
秀吉は、翌朝には近くの木幡山(こわたやま)に仮小屋を設けて避難し、すぐに同地での新城・木幡山伏見城の再建を命じました。
この大地震の際、加藤清正が真っ先に駆けつけて秀吉を助けたという逸話も有名ですが、清正自身の書状などから、後世の創作とする見方が有力のようです。
伏見城崩壊で権威は失墜、民の不満も募る
二度目の『慶長伏見地震』は秀吉に大きなダメージを与えました。
豊臣政権の象徴・指月城の壊滅
秀吉が隠居後の住まいにしようと期待していた完成間近の伏見城の天守や御殿が崩壊。
豊臣政権の象徴ともいえる城の壊滅は秀吉に大きなダメージを与えました。
というのも、秀吉は先の天正地震を経験していたため、城の普請にあたり耐震対策に気をつけるよう、担当の京都所司代の前田玄以に手紙を書いています。
「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まゝ、いかにもへんとうにいたし可申候間、いそきさしつ大工一人めしつれ候て、こし可申候」(『豊太閤真蹟集』)
現代語に訳すると、「伏見の普請では「なまつ」が大事なので、十分に対応しなければなりません。急いで指図するための大工を一人連れて来るように。」というような内容です。
「なまつ」とは、「ナマズ」のこと。昔からなまずが暴れると地震が起きるという言い伝えがあったそうですが、地震と鯰を関連づけた記述としては、現存最古の史料だそうです。
天下人とはいっても天変地異には敵わず。
方広寺大仏の損壊
秀吉は、東大寺の大仏にならい、方光寺に大仏殿の建立をしていました。
けれど、巨大な大仏(京都大仏)は、胸や手が崩れるなど大きく破損。秀吉は怒り弓を放ったという逸話も残ります。
大仏殿自体は比較的無事でしたが、豊臣政権の権威の象徴が失われました。
その他にも、東寺・天龍寺など京都の主要寺院が倒壊・損壊し、大坂・堺でも家屋倒壊が相次ぐなど大きな被害を受けたのでした。


