『豊臣兄弟!』あさひ犠牲の天正地震の悲劇は序章にすぎない!豊臣の権威を砕く「二度目の大地震」という絶望:2ページ目
大被害の秀吉側とほぼ被害のない家康側
この『天正地震』の約2週間前のこと。
秀吉は真田昌幸に、「家康を成敗する」「正月十五日以前には必ず出陣する」という旨の徳川攻めを決意した旨の書状を送っています。(真田昌幸宛秀吉書状/『大日本史料』『豊臣秀吉文書集』など)
この後、起こったのが『天正地震』です。当然、秀吉は徳川との戦どころではなくなります。
兵糧を蓄えた前線基地・大垣城は、水辺の地盤が弱い場所にあったために全壊。
織田信雄の居城・伊勢の長島城は倒壊、秀吉が始めて城持ちになった長浜城はこの頃、山内一豊が城主でしたがやはり倒壊。
一豊の一人娘だった数えで6歳の与祢(よね)が、乳母とともに倒れた建物の下敷きになって亡くなりました。
ほかにも、飛騨・帰雲城(内ヶ島氏理)は、山崩れで城・城下ごと埋没し内ヶ島氏一族・領民ほぼ全滅(滅亡)。
帰雲城に関しては、こちらの記事で詳しく紹介しています。
戦国時代に栄華を誇った帰雲城、天正大地震で一夜にして忽然と姿を消す
前田利家の弟・前田秀継の越中・木舟城は倒壊、陥没、城主夫妻は死亡ほか、大きな被害を被った秀吉側。
一方、家康の三河以東の領地は被害がほとんどなかったそうです。
『天正地震』で家康討伐を諦める
『天正地震』は、秀吉には以下の政治的影響を与えました。
家康討伐計画の中止
秀吉は前線基地・大垣城の全壊・焼失ほか、同盟勢力の城が壊滅的被害を受けたため、兵糧や軍勢の展開が困難になってしまいました。結果、武力での家康討伐を中止するしかありませんでした。
外交による臣従へと方針転換
武力討伐ができない代わりに、家康を懐柔するため、秀吉は天正14年(1586年)にすでに結婚していた妹・旭姫を強制的に離縁させ、家康に正室と輿入れさせました。
さらに、母・大政所を人質として送り家康を上洛させて臣従させました。
大政所を人質として差し出す件は、次回「家康の野望」で描かれます。
【豊臣兄弟!】母・なか(坂井真紀)までもが人質に…第41回『家康の野望』あらすじ&場面写真、相関図が公開
関白の母と妹を差し出された家康は、さすがに上洛せざるおえなくなります。これにより家康は豊臣政権の重臣となりますが……このとき、旭姫は数えで44歳、家康は45歳。
多くの専門家が「もし、大地震がなければ家康は秀吉に滅ぼされ、江戸時代はなかった」といわれるほど、秀吉にとって大きく運命を変えることになる大地震でした。
この地震が起きなければ、徳川家康は二ヶ月後に秀吉の大軍の総攻撃を受けるはずであった。(『天災から日本史を読みなおす』磯田道史)
そして、この地震がなければ。
妹・旭姫は無理矢理、離縁させられて44歳という年齢で家康に嫁ぐ必要もなかったかもしれません。




