【豊臣兄弟!】残虐無能な殺生関白は捏造?母に愛された秀次(山田涼介)粛清は豊臣滅亡を招いた最大の冤罪:2ページ目
40万石の大大名に成長した秀次
秀次は、天正12年、秀吉VS徳川との戦いで四隊編成・第四隊の総大将を務めるも惨敗。
敗軍の将から始まった秀次ですが、その後「紀州征伐」「四国征伐」では副将として活躍し汚名返上を果たしました。
天正13年(1585)、秀次は近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の五郡を与えられ、本人分20万石、宿老衆分23万石、合わせて43万石を与えられます。
わずか18歳で、豊臣一門で秀長に次ぐ2番目の大身となったのでした。
ドラマでは、母に「もうあなたは、40万石の大大名様なんだから!」と言われ、秀次は「もっと偉くなって母上に喜んでもらいたい」と答えました。
こんなことを最愛の息子にいわれたら、母としては最高に幸せでしょう。
ともは「藤吉郎に似てしまったわね」と言いつつもやはり嬉しそう。
「いつの日か私が殿下の後を継いだら、母上は大政所様ですぞ」
「あら…悪くないわね」
「皆の者、苦しゅうない」と芝居がかってともが言うと、「ははあぁぁぁ」と平伏してみせる秀次。
「お似合いですよ」と二人とも笑いながら、大政所様ごっこをしていてとても楽しそうで幸せなシーンでした。
こんなに仲のいい親子が、この10年後の文禄4年頃からは奈落の底に突き落とされると思うと、微笑ましい反面、切な過ぎました。
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秀次への愛が深かったことが推測できる史実
この母と息子が仲良しだったかどうかわかる一次史料はありませんが、間接的な記録から良好な親子関係だったことが推測できます。
天正19年(1591年)、24歳ごろに秀次が関白になると、ともと夫・三好吉房は聚楽第に移り住んだ記録があり、親として近くにいたことがわかります。
また、文禄4年(1595年)に秀次が切腹し、孫たち(秀次の子供たち)も三条河原で処刑された後、ともは出家しました。
法名を日秀とし、秀次一族の菩提を弔うために、嵯峨野に善正寺、村雲に瑞龍寺(後に近江八幡へ移転)を建立。
秀次の、強い愛情と悲しみの表れといわれています。
次男・秀勝は、朝鮮出兵中に病死、遺体は京都の嵯峨に運ばれとも自身が葬り、三男・秀保は十津川で急死するも、秀吉が葬儀を阻止しようとしたために、ともが交渉して葬儀を実現。
三人の息子の死を悼んだものの、やはり秀次の場合はあまりにも悲惨な最期だったために、出家して寺を建立するという行動に出たとわれています。


