【豊臣兄弟!】残虐無能な殺生関白は捏造?母に愛された秀次(山田涼介)粛清は豊臣滅亡を招いた最大の冤罪:4ページ目
秀次の功績を辿る近江散歩
⚫︎『新町通り』
近江商人の屋敷跡が多く残るエリア。今もなお瓦屋根の商家・町屋などが立ち並ぶ、国の重要伝統的建造物群保存地区。
⚫︎『京街道道標』
滋賀県近江八幡市にある街道時代の標石。
⚫︎『八幡堀』
八幡堀両岸が国の重要伝統的建造物保存地区に指定。
⚫︎『日牟禮八幡宮』
古くから近江商人の信仰を集めた氏神を祀る古社。
「歴史は勝者によって作られる」
天正19年(1591)、秀吉と茶々の子・鶴松がなくなり、秀長は改めて正式な後継者となり、二代目関白への道を進み始めたのですが……ここからが悲劇の始まり。
※鶴松の死に関しては、下記記事で詳しく紹介しています。
【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望
秀吉の天下統一事業の中で、最も悲惨で最も謎に満ちた事件とされる『関白・秀次事件』へとつながるのでした。
「殺生関白」など極端な悪行の逸話は、後付けの捏造である可能性が高いと言われています。
歴史は、勝者によって作られるもの。
秀吉による残虐な処刑を取り繕うため「秀次は悪い奴だった、殺しても仕方がない」という理由を付け、世間を納得させる必要があったという説、徳川の世になり秀吉・秀次が貶められたなどの説があります。
秀次の謀反の罪や切腹に至る経緯などにも、さまざまな説がありますが、いずれにしてもその死が引き金となり、豊臣は20年後の慶長20年(元和元年・1615)の『大坂夏の陣』で滅亡しました。
秀次の真の姿は、実は優れた行政手腕を持つ「名君」の器を秘めた青年で、“絶対に殺してはいけない人物だった”……とも言われる秀次。
これから、さらに研究が進んで、謎の部分がより解明していくかもしれません。
最後に
秀次が高野山で切腹したのは、文禄4年(1595)。
ドラマの主人公、秀長が亡くなったのは天正19年(1591)なので、秀次の最期は描かれないかも。
最初は他責思考ぶりを発揮し「大将の器ではない」と秀長に思われてしまった秀次。「殿下のためなら妻はいくらでも娶る」発言で秀吉も「性格に難あり」とちょっと引き気味……そんな様子でした。
徐々に、尊敬する叔父の政策への不信感などから悩み、その先の決別を思わせる場面は描かれるかもしれませんね。
今後の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の話題に関して、下記記事でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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参考:
・豊臣秀次 殺生関白の悲劇 (PHP新書 197)小和田 哲男
・羽柴秀次とその時代 (戦国大名の新研究)黒田基樹
・近江八幡市HP「豊臣秀次の思い出)








