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【豊臣兄弟!】残虐無能な殺生関白は捏造?母に愛された秀次(山田涼介)粛清は豊臣滅亡を招いた最大の冤罪

【豊臣兄弟!】残虐無能な殺生関白は捏造?母に愛された秀次(山田涼介)粛清は豊臣滅亡を招いた最大の冤罪:3ページ目

18〜19歳で築城と近江八幡城下町を築く

ドラマでは大大名となっていた秀次。この18歳〜19歳頃にはさまざまなことを行なっています。

⚫︎八幡山城の築城と城下町(近江八幡)の建設
八幡山に城を築き、安土城下の商人・住民を計画的に移住させ、城と町を一体で整備、近代的な都市計画の基礎を築く。

⚫︎八幡堀の開削
琵琶湖と城下町を直結する全長約6kmの水路を掘り、通る船に八幡への寄港を義務づけ、物流拠点として発展させる。

⚫︎「八幡山下町掟書」(13ヶ条)の発布と楽市楽座の実施
信長の安土城下町掟を踏襲しつつも、独自の規定も追加。座の特権を廃し自由商業を推進、周辺の市を八幡に集める政策で商業を活性化し、後の『近江商人』繁栄の基盤を作る。

⚫︎領内統治の善政
検地や訴訟処理を細やかに行い、領民・寺社から信頼を得た。渇水による水争いが流血騒動になったとき、自ら宿老・田中吉政と共に現地を見聞し、皆が納得する裁定を下した『水争いの裁き』の逸話が残る。

下の写真は『八幡山下町中掟書』。フリーマーケットOK、近江を行き来する商人は八幡で止まること、犯罪者を罰するのは本人のみで、一族や近所の人など連帯責任は押し付けないなど、いろいろな(けれど、住みやすそうな)ルールが書いてあります。

20~23歳頃、城下町を本格的に繁栄させる

天正15~18年(1587~1590年)、20~23歳頃には以下のことを行なっています。
⚫︎近江領国の安定経営の継続
約5年間の在城で城下町を本格的に繁栄。

⚫︎天正18年(1590年)・23歳頃:尾張・北伊勢へ転封
清洲城を居城とする約100万石の大大名に。尾張でも柔軟な検地や民政を行い、安定した統治を続ける(近江時代の延長線上の政策)。

最も最大の功績とされているのは、近江八幡での城下町建設・楽市楽座・八幡堀による物流革命です。

秀次が若くして優秀な内政官・都市計画者だったことを示す一次史料に裏付けられた功績で、現在の近江八幡の繁栄の礎となっています。

長浜自体は直接の居城ではなく、北近江支配の一部として宿老(山内一豊など)を通じて間接的に関与した形です。

わずか18歳にして近江43万石の領主となった豊臣秀次。自由商業都市としての発展を目指した秀次は、楽市楽座の施行、八幡堀の活用、各地から有力な商人や職人を呼び寄せるなど、あきないの町としての基盤を築きました。(近江八幡市HP「豊臣秀次の思い出)

4ページ目 秀次の功績を辿る近江散歩

 

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