朝ドラ『風、薫る』りんが書いた“看護のいろは”は実在!黒川医師と明治のナイチンゲール・大関和の看護黎明期:3ページ目
「この人は看護の現場に戻るべき」と確信した黒川
以前、バーンズ先生が看護学生たちに教えた
「あなたたちの“手”は、数百、数千倍の人を助ける“手”。」という言葉を覚えている人も多いでしょう。
看護婦が感染しないよう注意することが大切だという意味でした。
ドラマでは、りんは倒れた生徒を看護する際、ほかの生徒たちに感染しないよう指示を出していましたね。
生徒に「先生は?」と聞かれ、「私は感染しない方法を知っているから大丈夫」と。
細かくは描かれませんでしたが、「感染対策をしつつ観察して看護する」を実践したりん。
身に染み付いた「看護の基本」は忘れていませんでした。
黒川先生もそこに気づき「この人は看護の現場に戻るべき」という思いを固めたのだと思います。
「派出看護」を手伝う傍ら書いた「看護の基本」
実際、大関和は、ナイチンゲールの「Notes on Nursing」のような著書を出しています。
1つは明治32年(1899)刊行の『派出看護婦心得』。
ちょうど、直美のモデル・鈴木雅が帝国大学病院を退職して「慈善看護婦会」を立ち上げたのが軌道に乗り「東京看護婦会」に改称、附属の看護婦講習所を設立したころです。
和は婦長として働くかたわら、知命堂病院附属産婆看護婦養成所から卒業生を輩出。黒川と共に、同病院を新潟における看護婦養成の一大拠点とすることに成功した頃でした。
ある程度の役割を果たした和は、大変そうな雅を手助けするために上京します。
その頃、明治27年(1894)〜翌年にかけて行われた日清戦争で、急激に派出看護の需要が増加しました。
戦後の伝染病の蔓延、戦争中の篤志看護婦の活躍の影響で看護婦志願者が急増したことが原因です。
そして、最も問題だったのは、当時は看護婦資格や派出看護婦会の基準に定めがないことでした。
そのため、知識のない素人が派出看護会をはじめ、玉石混合のカオス状況に。素人の少女に適当な「看護」を教えて看護婦と偽り派遣したり、「看護婦は派遣先の家で体を売っている」などデマが飛び交ったりもしました。
このままでは看護婦の評判が悪くなる考えた和と雅。
和は知人のコネを使い内務省衛生局に直訴、雅は「東京看護婦会講習所」を設立して看護婦の養成に務めました。
明治32年(1899)に出版した『看護婦派出心得』は、版を重ねるほど看護婦を目指す多くの人に読み継がれました。

