朝ドラ『風、薫る』さよなら吉江先生…実際はりんのモデルを看護婦の道へ導いた実在モデル・植村正久とは:3ページ目
植村正久が大関和に「看護婦になる」ことを勧めた
そんなある日、正久から「看護婦にならないか?」と言われた和。
正久の教会経営に協力してくれている宣教師のマリア・T・トゥルーが、自身の経営する桜井女学校に付属の看護学校を作るので、一期生として入学しないか」とのことでした。
看護婦とはなにか?を知らない和は乗り気ではありませんでした。
この時代、看護婦は「賎業」と呼ばれ差別を受けていたので、抵抗もあり、そんな正直な気持ちを和は正久に打ち明けたそうです。
正久はフローレンス・ナイチンゲールの偉業を例に挙げて、看護婦は卑しいなどと言われるような仕事ではないこと。
そして「怪我や病気で苦しむ患者を救う看護の道は、キリスト教の博愛精神にかなう」と、説得したそうです。(『婦人新報』和の回想より)
和は、自分が家老の娘であることにこだわっていたことが急につまらないものに感じたそうです。
その後、マリアたちと横浜の貧民窟で行われている貧民救済活動に行き、「ここで必要なのは、十分な栄養と清潔な環境と女性の雇用です。それらをすべて満たせるのが看護婦という職業です」と聞かされて、看護婦になることを決めます。
和は早速その決意を報告したいと、植村正久宅を急いで訪れたのは深夜の1時過ぎだったそう。
ドラマの中でりんのことを直美が「こうと思ったらすぐに突っ走る」と笑いながら評してましたが、まさにその通りの性格ですね。
伝道以外にも政治・社会・教育・文学面も
大関和が、桜井女学校付属看護婦養成所に入学したのは明治20年(1887)。
その頃、正久はロンドンに洋行したり東北学院神学部教授に専任されたり、各地で講演を行ったりと熱心な伝道活動をし続けます。
さらに明治37年(1904)には、外国人の宣教師に頼らない東京神学社神学専門学校を設立。明治39年には一番町教会の会堂を富士見町に建築し富士見町教会とします。
また、自身の発行物ではキリスト教のことだけではなく、政治・社会・教育・文学などについても積極的に触れました。
大正11年には、米英の関係諸教会へ特使として派遣され米国、カナダ、スコットランドを訪問し、帰国後は日本全国を巡って伝道活動をします。
ところが、大正12年(1923)の関東大震災で、富士見町教会や東京神学社は焼失してしまいました。
その頃、キリスト教主義の大関看護婦会を設立していた和は、看護婦会が全焼するものの看護に奔走していました。
その後も正久は、東京神学社の校舎を再建し、上田や松本、九州などの諸教会を伝道で巡るなどの活動をしていました。
けれども、大正14年、脳溢血のために66歳で急死。正久の訃報は翌日の新聞でも広く報道されたそうです。
