朝ドラ『風、薫る』さよなら吉江先生…実際はりんのモデルを看護婦の道へ導いた実在モデル・植村正久とは:2ページ目
吉江善作のモデルは牧師・植村正久
この吉江善作のモデルといわれているのが、明治時代に実在した牧師・植村正久なのです。
実は、この植村正久は、直美のモデルである鈴木雅ではなく、りんのモデルである大関和を見守りトレインドナースになる道を教えて、躊躇する和の背中を押した人なのです。
実は、ドラマの中のりんのように、和も親がまとめた縁談相手と19歳で結婚。夫は22歳年上・バツイチ・複数の妾持ちでした。和は夫の女関係や姑の性格などに耐えきれずに離婚します。
離婚後、夫との間に子供がいた和は、国の中国語通訳の仕事をしていた鄭永寧家で女中として働きました。
外国語が飛び交うハイカラな鄭家で働くうちに、親しくなった息子の鄭永慶に、「これからは英語の時代。英語を身につければ女性でも仕事はある」と語学習得を勧められます。
そして、永慶が紹介したのが植村正久の弟・正度が経営する英語塾だったのです。その塾ではほとんどがクリスチャンでした。その教えに興味を持った和は、教会にいる兄の植村正久を訪ねたのが出会いの始まりです。
キリスト教には興味がなかった和ですが、正久の裏面のない誠実な人柄に惹かれて信頼するようになりました。
ドラマの原案伝記小説では、和が正久に好感を持ったのは、彼は妻のことを「愚妻」とは呼ばず「賢妻」と呼んだというところ。
すごく、わかりますね。
明治時代は、「女は内をに在りて夫を助け家政を営め」な女性差別が当たり前の時代でした。
そんな時代、ほぼ同世代の男性の植村正久が「賢妻」と呼んでいることに和は感動を覚えたのではないでしょうか。(元夫がひどい男だっただけに)
旗本の息子が英語とキリスト教を学び牧師に
植村正久は和とおなじ安政4(1857)年に、徳川1500石の旗本の息子として江戸で生まれました。
維新後にお家は没落し、一家は横浜に引っ越します。正久は西洋の学問で身を立てようと熱心に英語を学び、その過程でキリスト教と出会ったのでした。
父は商売で身を立てようとするも失敗し病死、生活はどんどん苦しくなります。そのとき、正久はアメリカ人宣教師・ブラウンが開く英語塾に通っていましたが、学費の捻出が困難になってしまいました。
そこで正久は、自宅で塾を開きブラウン塾で学んだことを教えるように。私塾は評判も上々で生徒はたくさん集まったものの、塾に通学し続けるほどのお金は貯まりませんでした。
そんなある日、有名なアメリカ人宣教師の伝記を入手し、一晩で読み切ってしまうほどに感動した正久は、「牧師となり一生を伝道捧げる決意」をします。
その思いを手紙に書いてブラウンに伝えたところ、同氏は非常に感動し「学費は要らない」といってくれたそうです。(『植村正久と其の時代』より)
明治10年(1877)、正久は東京一致神学校の一期生となり、明治12年には日本基督一致教会の牧師となります。さらに、明治20年、一番町教会堂(のちの富士見町教会)を設立しました。大関和は、この設立したばかりの一番町教会堂で洗礼を受けています。
和は「キリスト教の一夫一婦の精神」を教えられて感動し、キリスト教こそが女性たちを救う宗教であると信じたそうです。
前夫の複数の妾や「妾は男の甲斐だ!と持ち上げる姑にうんざりしていたので、なおさらでしょう。
和は、気分が塞ぐと正久の教会に出かけては延々愚痴を聞いてもらったそう。正久は和の気が収まるまでずっと話を聞いてくれたそうです。

