朝ドラ「風、薫る」侍医から医学界の重鎮へ…内科助教授・坂田幸作のモデル・入沢達吉の生涯:2ページ目
助教授への就任し、教育行政の担い手となる
やがて達吉は医学の教育現場と関わるようになります。
明治28(1895)年、達吉は東京帝国大学医科大学助教授に就任。後進の医師を育成する立場となりました。
この頃の帝国大学附属医院は、教育と診療の両方を担う重要な場所でした。
帝国大学の附属医院には第一医院と第二医院があり、内科、外科、眼科、産科、婦人科、小児科などが置かれていました。各科では教授、助教授、外国人教師、助手らが診療を分担していたとされます。
達吉が働いた場所は、まさに近代病院が整えられていく現場でした。
そこでは医師だけでなく、看護婦、助手、学生、患者が交差していました。『風、薫る』が描く看護の世界とも、時代の空気として重なります。
明治33(1900)年に最後のドイツ人教師ベルツが退任。翌明治34(1901)年、達吉が後を継ぐ形で教授に昇任しています。
明治日本の医学界では、外国人教師から学ぶ段階を経て、日本人医学者が自ら大学医学を担う段階へ移っていました。
達吉が後を継いだ時点で、全員が日本人教授による体制になっています。これは、日本医学史の大きな転換点でした。
このときの達吉は「入沢内科」を主宰しつつ、医学生の教育と患者の治療にあたります。
ドイツ医学を学び、それを日本に持ち帰り、大学教育の中で次の世代へ伝える。達吉の仕事は、単に患者を診ることにとどまりません。日本の内科学そのものを制度として根づかせる仕事でもありました。
