源平合戦期にもいた“傾奇者”毛利太郎景行とは?和田合戦で壮絶な最期を遂げた知られざる生涯:3ページ目
エピローグ
『吾妻鏡』によれば、和田合戦における毛利主従の討死は以外の通りです。
一 毛利人々
毛利太郎 同小太郎 同小次郎 森邊五郎 甥一人 彦一人 澁河左衛門 同小次郎 同左衛門太郎 同次郎
以上十人※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月6日条
- 毛利太郎景行
- 毛利小太郎
- 毛利小次郎
- 森辺五郎(もりべ ごろう)
- その甥(同姓とは限らない)
- その彦(五郎自身の孫?甥孫?)
- 渋河左衛門(しぶかわ さゑもん)
- 渋河小次郎
- 渋河左衛門太郎
- 渋河次郎
果たしてこれが全員=全滅だったのか、あるいは毛利一族の生き残りがいるのか、詳しいことはわかっていません。
かくして毛利一族は滅亡し、その所領であった毛利荘は政所別当の大江広元が領するところとなりました。
その後に広元の四男である大江季光(すえみつ。四郎将監)が受け継ぎ、やがて毛利の苗字を名乗ります。
そして西国へ下り、戦国時代に中国地方の覇者となる毛利氏の祖となったのでした。
終わりに
……永暦の頃(紀元一八ニ〇年)毛利太郎景行(平家被官)治承の頃より景行当煤ケ谷村に住す。其の子なる小太郎も住す。当地に八幡神社を勧請。
建保元年(紀元一八七三年)景行父子和田義盛に党(くみ)して敗死す。建久年中、因幡前司大江広元大膳大夫所領。
鎌倉時代 広元の子四郎将監季光蔵人大夫伝領、北条氏治下……
※緑小学校蔵『郷土誌』写し
※紀元は皇紀=西暦+660年で換算。
今回は毛利荘を治めた毛利太郎景行の知られざる生涯をたどってきました。
物語の主人公になってもおかしくない豪傑・快男児ぶりでしたが、なぜこれほどの逸材が埋もれてしまったのでしょうか。
やはり「敗者は歴史を語れない」と言われる通り、和田合戦によって敗亡したからと考えられます。
しかし地元にはその功績を顕彰する史料が遺されており、こうして知られざる英雄の姿を発掘できました。
もしかしたら、他にも景行のような英雄が、まだ全国各地に眠っているのかもしれませんね。
※参考文献:
- 『煤ケ谷史料』清川村図書室、1963年5月
- 『昭和四十九年度 祠めぐり』清川村教育委員会、1975年3月
- 『昭和五十七年度 清川村地名抄』清川村教育委員会、1983年3月

