『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜京都を固めた家康のトライアングル防衛線【前編】:2ページ目
家康が最も恐れていた「あること」とは
江戸幕府は、将軍と大名(藩)という封建的主従関係のもと幕藩体制を構築しました。
この体制をもとに、大名は幕府により日本各地に配されることになります。
そのうえで、関ケ原の戦い前後から徳川に従った大名たち、すなわち外様大名は関東・京都・大坂などの要衝から離れた場所におかれました。
よく知られる外様大名としては、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、米沢藩の上杉家、仙台藩の伊達家などがあります。
みんな戦国時代から武名を誇り、100万石を越える、あるいはそれに近い領地を所有していた名家です。彼らは、元々の領地やその一部を幕府から安堵されたのですが、本領はともかく飛び地(本領から離れた領地)でさえ戦略上の要衝に領地を与えられることはありませんでした。
その理由は明確です。江戸幕府がどんなに強固な幕藩体制で大名を縛ろうとも、やはり外様は外様でした。つまり幕府からすれば、外様大名は信用できない存在だった。だからこそ、要衝周辺には「絶対に裏切らない大名たち」を配置したのです。
家康は戦国乱世を生き抜いて、天下を取った人物です。織田信長や秀吉の下で、忍耐と苦渋の日々を過ごしてきました。しかし、それ以上に痛感したのは、政権を維持することの難しさであったでしょう。
室町幕府の目に余る弱体化、そして三好長慶、織田信長、豊臣秀吉もまた、長期的な政権維持はできませんでした。だからこそ、家康は自分が生きている間に、幕府が長きにわたって存続できるためのあらゆる手段を行った。その代表例が、軍事面では大坂の陣による豊臣氏の壊滅、法令面では武家諸法度、禁中並公家諸法度であったのです。
そして、江戸に幕府を開いた家康にとって、やはり気になるのが朝廷のある京都でした。ここには、天皇がいる。いつ何時、幕府に反旗を翻した勢力が、天皇を奉じるために京都に攻め込むかわからない。そうなれば、幕府は朝敵となります。
これが、家康が恐れたことでした。だから、家康は二条城を御所の近くに置き、知恩院と金戒光明寺を要塞化したのです。この家康の恐れが、現実化したのが約260年後に起きた倒幕運動に事を発する、鳥羽伏見の戦いであり戊辰戦争でした。
しかし、幕府が260年続いた末に弱体化した幕末と比べると、秀吉亡き後は、誰も家康に逆らえない状況にありました。
それは、関ケ原の戦いを思い出せばわかることです。家康が「会津の上杉景勝を討つぞ!」と言えば、徳川の譜代だけでなく、福島正則など豊臣一族ともいうべき大名たちのほとんどが「内府がおっしゃるなら間違いない」と、率先して従います。つまり、家康が「カラスは白いといえば、黒いカラスも白くなる」というわけです。
家康の凄いところは盤石の立場にありながら、恐ろしいほど用意周到なことです。京都を固めたうえで、それでもなお満足せず、江戸幕府を守る第二段の軍事配置を進めていきます。
その鍵を握るのが、井伊直政・直勝父子、そして藤堂高虎なのです。そのことについては、[後編]で詳しくお話ししましょう。
※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社



