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【豊臣兄弟!】松永久秀との因縁、織田信長に最後まで抗った三好三人衆・石成友通の壮絶な最期

【豊臣兄弟!】松永久秀との因縁、織田信長に最後まで抗った三好三人衆・石成友通の壮絶な最期:2ページ目

久秀との因縁、信長との対立

永禄7年(1564年)に長慶が世を去ると、三好三人衆の一人として、家督を継いだ三好義継(よしつぐ)を補佐しました。

そして永禄8年(1565年)には足利義輝を殺害し(永禄の変)、畿内の主導権をめぐり松永久秀や畠山高政(はたけやま たかまさ)らと抗争を繰り広げます。

永禄9年(1566年)には久秀に与していた勝竜寺城を攻略、永禄10年(1567年)になると久秀を攻めるため大和国へ乗り込みました。

しかし奇襲を受けて敗北。この時に本陣をしいていた東大寺(奈良の大仏)が炎上してしまいます。大仏を焼いたのは久秀か、それとも三好三人衆かははっきりしません。

永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛すると、三好三人衆はそれまで敵対していた六角承禎(ろっかく じょうてい)らと組んで激しく抵抗しました。

盟友たちが次々と逃亡または降伏(兵力温存のためとも言われる)、そんな中で友通と池田勝正(いけだ かつまさ)だけは頑強に抵抗したそうです。

それでも9月29日には勝竜寺城を放棄、三好家の本国である阿波国(徳島県)へと退却。信長の上洛を許すことになりました。

3ページ目 本圀寺の変後、信長に仕えるが……

 

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