【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯:3ページ目
肥後一国の大名に返り咲くが……
かくして大名としての政治生命を断たれたかに見えた成政ですが、天正15年(1587年)の九州征伐で武功を立てたことから、肥後国を丸ごと与えられました。
実に気前がいいですね。また裏切らないといいのですが……今度は裏切りませんでした。ただし成政は、ここでやらかしてしまいます。
秀吉は領民の反感を買わないよう、急激な改革や苛烈な統治を行わないよう指示しました。しかし病を得ていた成政は、死後の憂いを断っておきたかったのか、いきなり検地に着手したのです。
これが肥後領民の怒りを買い、隈部親永(くまべ ちかなが)ら国人衆の一斉蜂起(肥後国人一揆)を招いてしまいました。
一揆を自力で鎮圧できず、多大な犠牲を出してしまった成政は謝罪しても許されず、ついに切腹を命じられます。
このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり
※成政の辞世
【意訳】厄難と妄想をため込んだ鉄の鉢と袋≒自分の腹を、今こそ破ってすべてぶちまけてやろう。
成政は脇指で自分の腹を横一文字に切り裂き、手を突っ込んで内臓をつかみ出し、それを天井に投げつけました。
どうせ死ぬなら、この世の置き土産として、自分を破滅に追いやった厄難を天下にばらまいてやろうとでも思ったのでしょうか。
時に天正16年(1588年)閏5月14日、実に壮絶な最期でした。戒名は成政寺庭月道閑大居士、墓所は慈眼寺(京都市上京区)などにあります。
終わりに
今回は佐々成政について、その生涯をたどってきました。何度も秀吉に敵対し、それでも肥後一国を与えられながら、失政の咎で切腹に追い込まれた最期に無念を禁じ得ません。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、小一郎や秀吉とどのような関係を描いていくのか、白洲迅の好演に期待です。
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※トップ画像:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより
※参考文献:
- 萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年8月
- 花ヶ前盛明 編『佐々成政のすべて』新人物往来社、2002年2月


