実在した豊臣秀吉のミイラ――出土するもたちまち崩壊…神になろうとした天下人の痛ましい末路:2ページ目
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状況が変わったのは明治維新後でした。
慶応四年、明治天皇の大坂行幸をきっかけに豊国大明神の神号が復活し、明治十三年には京都に豊国神社が再興されたのです。
さらに明治三十三年、黒田長成ら豊臣家ゆかりの大名の子孫が中心となり、秀吉の墓碑を整えるための豊国会が結成されました。
ここまではいいのですが、この豊国会がとんでもないことをしでかします。
ミイラ発見!しかし…
この豊国会が墓碑を整えるための整備を進めていた最中、なんと秀吉の遺体を納めた甕(かめ)が出土しました。
蓋を開けると、そこには西向きに鎮座した秀吉のミイラがあったと記録されています。
しかし、ここで取り返しのつかない事態が起こります。意図せずして墓荒らしのような形になってしまったわけですが、豊国会の関係者たちは甕から遺体を取り出そうと試みたのです。
そのままにしておけばよかったのに、ミイラはたちまち崩壊してしまいました。
もしも科学が発達した後世に発見されていれば、秀吉の健康状態や死因、当時の保存技術など、多くの情報が得られた可能性があります。
しかし、崩壊した遺体は絹の布に包まれて桐箱に収められ、銅製と石製の箱で二重に覆われて再び地中に戻されました。その後は再調査も行われていません。
秀吉の遺体は、再び静かに眠りについたまま、現代に至っています。天下人のミイラが実在し、しかも一度は人の目に触れたという事実は、歴史の中でも特異な出来事です。
豊国神社
- 住所:〒605-0931 京都市東山区大和大路正面茶屋町
- 交通:京阪電車「七条」下車 徒歩約10分、バス「博物館三十三間堂前」下車 徒歩約5分
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※参考資料:堀江宏樹『日本史 不適切にもほどがある話』三笠書房、2024年
※画像:Wikipedia,photoAC
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