『豊臣兄弟!』名誉か捏造か…桶狭間の一番手柄・簗田政綱、伝説と史実の狭間で消えた最期:2ページ目
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創られた政綱の活躍
『甫庵信長記』は『信長公記』をもとに作成されたものですが、甫庵自身が意図的に創作を加えていることが知られており、信ぴょう性は低いです。それでもこの説が広まった背景には、信長が情報の重要性を理解していた革新的な武将であることを示すため、このエピソードが後世に定着した可能性が考えられます。
※『信長公記』の著者・太田牛一については、以下の記事で紹介しています。
【豊臣兄弟!】ドラマの信長像を決定づけた男…貴重な史料『信長公記』の著者・太田牛一は何者なのか
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていると、どうしても気になってくるのが織田信長の存在です。戦の天才として描かれる一方で、家中の人事や家臣たちの距離感など、「この信長像、史実ではどうだったの?」と感じ…
なお、政綱が桶狭間の戦い以前に偵察や地形調査を行っていたという説もありますが、こちらも確たる証拠はありません。
戦後の政綱の動向についても沓掛城の城主になったこと以外の記録がなく、残業ながら不明です。
確かに存在した政綱の子・広正
そんな政綱には、信長の馬廻として仕えた簗田広正という子がいます。
広正は元亀元年(1570年)の小谷城攻めにおいて、佐々成政らとともに殿を務めました。さらに、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、目付を命じられています。
天正3年(1575年)には別喜姓と右近大夫を授けられ、別喜右近とも名乗りました。天正6年(1578年)には尾張衆の一人として織田信忠に仕えましたが、翌年に病没しています。
このように、子である広正の活動は比較的詳しく記録が残っている一方で、政綱自身のその後については史料がほとんど存在しません。
そのため、桶狭間の戦い後に病没したのか、あるいは何らかの理由で歴史の表舞台から姿を消したのかは分かっていません。
確かなことが言えるのは、簗田政綱が史実と創作の狭間に位置する、謎の多い人物ということでしょう。
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