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大河【豊臣兄弟!】無刀で敵3人を討つ!織田信長「六人衆」の強者・伊東長久の武勇伝

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秀吉の部隊に配属

天正元年(1573年)の小谷城攻めでは羽柴秀吉(藤吉郎。池松壮亮)の部隊に配属され、ここでも大いに奮闘したのです。

あまりの奮闘ゆえか、気づくと刀も脇差もなくなっており、敵のまっただ中でさぞ困ったことでしょう。

しかしここで諦める長久ではありません。何と彼は無刀で敵を3人も討ち取り、しかも生還しているのです。一体どうやって敵を討ち取ったのでしょうか。

一、敵の武器を奪った?

一、そこら辺にある石ころや木の枝で攻撃?

一、まさか素手で殴り殺した?

どんな状況にあっても生き延びる、根っからの戦さ人だったようです。

この活躍が評価され、以後秀吉の配下として活躍。黄母衣衆(腰母衣衆)に選抜され、後に旗奉行を務めました。

秀吉時代の続き

やがて信長が本能寺で横死を遂げ、織田政権の乗っ取り抗争においても、長久は活躍します。

天正12年(1584年)の小牧合戦では秀吉本陣の護衛する小姓組七手の合計四千の軍勢を指揮しました。

【小姓組七将】

  • 尼子六郎左衛門(あまご ろくろうざゑもん)
  • 池田与左衛門(いけだ よざゑもん)
  • 伊東長久
  • 佐久間忠兵衛(さくま ちゅうべゑ)
  • 佐藤主計頭(さとう かずえのかみ)
  • 速水守久(はやみ もりひさ)
  • 真野助宗(まの すけむね)

この頃になると、さすがに最前線で槍を奮うことはなくなり、一軍の将として采配を振るっていたことでしょう。

続く天正13年(1585年)にも佐々成政を討伐するべく越中国へ遠征します。しかしその途上、金沢または小松の地で病死してしまいました。

享年53歳。まだまだ戦いたかったでしょうに、志半ばに世を去った無念が偲ばれます。

3ページ目 伊東長久・基本データ

 

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