手洗いをしっかりしよう!Japaaan

日本史初の“女性切腹”——将軍・足利義政の乳母から罪人へ…今参局の栄光と悲劇的な最期

日本史初の“女性切腹”——将軍・足利義政の乳母から罪人へ…今参局の栄光と悲劇的な最期:2ページ目

三魔としての権力を振るい、幕政に関与

三魔とは、義政の治世初期に幕政に大きく関わった側近たちの総称で、「いままいり」「からすまる」「ありま」の3名いずれの名前にもまの音が含まれていることが、その呼称の由来とされています。

三魔として絶大な発言力を持った今参局は、宝徳2年(1450)に起きた尾張国の守護代人事において、一度解任された織田郷広を再度守護代に任命するよう義政に進言します。

この進言は管領・細川勝元の反対に加え、義政の生母・日野重子が嵯峨に出奔するという強い抗議も重なり、結果として受理されませんでした。とはいえ、この一件から今参局が自身の意見で義政が直接動くほどの強い影響力を持っていたことがうかがえます。

日野重子との政争に敗北し、切腹

そんな中、今参局の権威は長禄3年(1459)1月に起きたある出来事をきっかけに崩れ去ります。それは、義政の正室である日野富子の子が生まれて間もなくして亡くなってしまったことです。

この不幸な出来事に対し、世間では今参局の呪いによって、富子の子が殺されたとの噂が広まり始めました。この噂に重子や以前から今参局に反感を抱いていた守護大名たちが便乗し、追い込まれていきます。

その結果、今参局は琵琶湖の沖ノ島へ流罪とされました。そして、護送中に重子が放った刺客に襲撃されるも、重子に殺されるならばと自らで命を絶った方がましと考えたのか、切腹して命を絶ちました。

この一連の事件によって、今参局は不利な状況に追い込まれた末に無念の最後を遂げた人物として同情の目を向ける者も少なくなかったそうです。

※関連記事:

側室を全員追放!私腹を肥やしクーデターも!日本三大悪女のひとり「日野富子」の闇っぷりが凄まじい【前編】

永享12年(1440年)、室町幕府が開闢して2年ほど経った頃、足利将軍家と深いつながりがあった名門・日野家に1人の玉のような女の子が誕生しました。彼女の名は「富子」。16歳で室町幕府…

■参考文献:

本郷和人『夜に読みたくない かなしい日本史 運命に泣いた歴史人物』JTBパブリッシング、2025年

 

RELATED 関連する記事