2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──豊臣秀吉・秀長の主君・織田信長が築いた安土城とは?【前編】:2ページ目
安土城の基本理念は織田政権の象徴だった
標高199メートルの安土山に安土城が完成したのは1579年(天正7年)のこと。信長の掲げた「天下布武」の象徴として、また、織田政権の戦略・政治両面における中枢拠点として築かれました。
現在では、安土城跡がある安土山は独立した丘陵となっています。しかし築城当時は、琵琶湖の内海(現・西の湖)に囲まれ、その地形を天然の広大な水堀として利用するとともに、港としての機能も備えていました。
安土は京都から陸路で約50キロ、琵琶湖を舟で横断すれば約30キロという至近距離に位置し、都にいったん変事が起これば、すぐに駆けつけることのできる絶好の立地でした。琵琶湖そのものを城郭機能の一部に取り込んだ安土城は、水路を活かすことで、大軍勢や大量の物資を迅速に京都へ輸送することが可能だったのです。
そのような安土城ですが、戦国期の城郭として決して完璧ではなく、明確な弱点も抱えていました。それは、何と言っても防御力の乏しさです。
通常、山城であれ平城であれ、大手門から本丸へ至る道は細く、曲がりくねるように設計されます。攻め手に対し、鉄砲や弓矢による横矢を効果的に浴びせられるよう工夫されていたためです。
しかし安土城では、大手門から本丸下の中腹付近まで、幅6メートルの道が約180メートルにわたり直線で伸びています。道の両側には前田利家や羽柴秀吉など重臣たちの屋敷が並んでいたものの、この区間には顕著な防御施設がほとんど見られません。
戦国時代の典型的な城郭構造に慣れている人にとっては、大手門跡から見上げるこの“無防備”な光景に強い違和感を覚えるのではないでしょうか。
つまり、信長は安土城を従来の山城のような籠城するための要塞としてではなく、自らが生活しつつ政治的采配を振るう、織田政権の象徴として位置づけていたと考えられるのです。言い換えれば、安土城は信長にとっては自らの権威を人々に“見せる城”であったのです。
余談になりますが、こうした信長の考え方を示す史実が今に伝わっています。それが、安土城全体を提灯でライトアップしたり、100文の見学料を徴収して城内を一般に公開したという逸話です。
それでは[前編]はここまでとします。[後編]では実際に安土城に登城した体験をもとにレポート風にお届けしましょう。
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