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徳川家康が愛した“無欲の男”——静岡の地名にも残る謎の豪農・惣右衛門とは何者だったのか?

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一、徳川家光の腹掛け

徳川家の第3代目をめぐって対立があったころ、家光(家康の嫡孫)の乳母であった春日局(かすがのつぼね)がお忍びで良知家を訪れました。

「家光を世継ぎに推すよう、一緒に家康を説得してほしい」とお願いするためだったと言われています。

家光が幼少期に用いたという腹掛けは、連帯の証として与えられたのかも知れません。

一、重傷の家康を保護

家康が鷹狩りに出た際、何者かに狙撃され、重傷を負ってしまいました。惣右衛門は急いで家康を保護し、看護に当たったというのです。

一、久能山東照宮のカギ

家康が世を去った後、その亡骸を祀る久能山東照宮の廟門を開閉するカギが、良知家に預けられました。以来毎年の東照宮祭(家康の命日祭)には良知家が廟門を開閉する役目を務めたと言います。

ちなみにカギは戦後、久能山東照宮に奉納(返還)されたそうです。

……いずれも「ホントかなぁ?」と思ってしまいますね。

腹掛けはその辺にあったものだろう(春日局なら家康に直談判しかねない)し、家康が重傷を受けたら治るまでの期間、隠し通すのは容易じゃありません。そしてカギについても、より然るべき立場の者が管理したことでしょう。

しかしこうした逸話には「みだらけ惣右衛門なら、そのくらい家康から信頼されていたかも知れない」という期待が込められています。

また「みだらけ」には「のんき者」という意味もあったそうで(身懶け?)、こんな逸話もありました。

ある日、惣右衛門が家康に献上しようと沢山のドジョウを捕らえ、わら筒に入れて駿府城へ向かいます。しかしわら筒は作りが粗かったのか、ドジョウはみんな逃げてしまいました(数匹だけ残っていたバージョンも)。

家康は呆れるやらおかしいやら。惣右衛門に褒美を与えますが、惣右衛門はもらった褒美を村のみんなにすっかり分けてしまったそうです。

その無欲さを愛でて、家康は改めて褒美を与えたのでした。たぶん「今度は分けなくてよいぞ」と言ったことでしょう。

終わりに

今回は静岡県焼津市「惣右衛門」の地名について、そのモデルとなった「みだらけ惣右衛門」こと良知惣右衛門について調べてきました。

戦国乱世を生き抜いた割には随分と純朴な人柄だったようですが、だからこそ家康からも愛されたのでしょうね。

のんきで無欲で、純粋にみんなのことを思いやる。そんな「みだらけ」の精神は、現代社会でも求められているように感じられます。

【参考資料】

 

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