手洗いをしっかりしよう!Japaaan

【豊臣兄弟!】天下人を支えた“最強の母”!秀吉・秀長を女手一つで育てた母・仲(坂井真紀)の生涯

【豊臣兄弟!】天下人を支えた“最強の母”!秀吉・秀長を女手一つで育てた母・仲(坂井真紀)の生涯:2ページ目

天下人の母となる

そんな天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。秀吉の主君であった織田信長が明智光秀の謀叛によって横死を遂げると、長浜城は明智方の阿閉貞征(あつじ さだゆき)に攻め込まれてしまいました。仲はおねと一緒に伊吹山麓の大吉寺へ非難し、事なきを得たと言います。

明智光秀を討伐し、織田政権の乗っ取りに成功した秀吉が新たな本拠地として大坂城を築くと、仲らは大坂へ移り住みました。

そして天正13年(1585年)7月11日に秀吉が関白に就任すると、仲は従一位という破格の叙位を受け、大政所(おおまんどころ)の称号を贈られます。

かくも大切にされてきた仲ですが、天正14年(1586年)9月に秀吉が以前から対立していた徳川家康に上洛を促す≒臣従せしめる際には、人質として徳川家へ送られます。

※先に人質(家康の正室)として送られていた旭(朝日姫)の見舞いという名目でした。

さすがの家康もここまでされては重い腰を上げざるを得ず、両雄の会見は無事に終了します。人質となっていた仲も一ヶ月程度で無事に解放されたのでした。

やがて天正18年(1590年)になると、秀吉が小田原北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げます。息子たち(秀吉・秀長)が天下統一の偉業を成し遂げた様子を、母親としてどのような心境で見守っていたのでしょうか。

しかし秀長は兄の天下統一を見届けるや、天正19年(1591年)に先だってしまい、仲自身も病が重くなっていきます。

天正20年(1592年。文禄元年)に朝鮮出兵(文禄の役)が始まり、秀吉が前線基地である名護屋城へ移ると、仲は京都・聚楽第で療養するようになりました。

7月に入って仲の病状はいよいよ悪化し、それまで秀吉を気落ちさせまいと報告を躊躇っていた関白の豊臣秀次(長女ともの子で秀吉の甥)が、ついに危篤を報告します。

報告を聞いた秀吉は居ても立ってもいられず、慌てて名護屋城から帰還するも、死に目には間に合いませんでした。

天正20年(1592年)7月22日、仲は77歳で世を去ったのです。母親の訃報を聞いた秀吉は悲しみのあまりその場で卒倒。気を取り直して懇ろに葬り、菩提を弔ったと言います。

秀吉を気遣った後陽成天皇(ごようぜい。第107代)は勅使を派遣し、仲に准三后(じゅさんごう)の称号を追贈しました。

3ページ目 仲(大政所)略年表

 

RELATED 関連する記事