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朝ドラ「ばけばけ」史実でトキとの関係は?松江中の生徒 小谷春夫のモデル、小泉八雲の愛弟子・大谷正信の生涯

朝ドラ「ばけばけ」史実でトキとの関係は?松江中の生徒 小谷春夫のモデル、小泉八雲の愛弟子・大谷正信の生涯:2ページ目

近代的な英文学者と俳人としての歩み

明治32(1899)年7月、正信は東京帝国大学を卒業。進路として選んだのは、教師としての道でした。

正信は私立郁文館哲学館(のちの東洋大学)、真宗大学洲本中学校などで教壇に立って後進を育成。明治41(1908)年に金沢の第四高等学校教授に就任します。

この頃の正信は、英文学だけでなく俳句において生徒たちに多大な影響を与えました。

金沢四高時代には室生犀星の青春期に俳句指導を行い、北陸の文学青年たちに確かな基礎を与えています。

しかし正信は、教職という立場で満足していませんでした。

明治42(1909)年か、正信は文部省留学生としてロンドン大学に留学。2年間の留学期間で英文学・英語音声学の知を深めました。

大正13(1924)年、広島高等学校教授へ転任。この頃から師であった小泉八雲の伝記を書く作業を始めています。

正信は翻訳家としては、師小泉八雲の作品に深く関わっていました。のちに正信は第一書房から『小泉八雲全集』で複数巻を担当しています。

小泉八雲と交流し、言葉を交えて深く関わった正信。彼だからこそ成し遂げることができた業績でした。

しかし、そんな日々にもやがて終わりが訪れます。

昭和8(1933)年11月17日、正信は広島で没しました。享年58。遺骨は故郷・松江の恩敬寺に眠っています。俳人としての句碑は、生家近くの松江市東茶町にも建てられ、故郷の景とともに記憶は今もそこにあります。

大谷正信は、英文学者として理にかなった文体を求め、俳人として情の温度を守りました。

八雲から受けた「読む力・書く力の鍛錬」は、翻訳と句作の双方で生涯の軸となります。師と友、弟子と後進――人の縁に導かれながら、彼は「ことば」で世界をつなぐ役割を、静かに、誠実に果たしたのだと思います。松江からロンドン、そして広島へ。時代の風を受けながらも、句と文に宿る淡い光は、今なお確かに読者の手元で息づいています。

 

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