朝ドラ「ばけばけ」雨清水傳(堤真一)のモデル、幕末の長州征伐で武功を挙げた小泉弥右衛門湊の晩年の苦境:2ページ目
塩見家の娘チエとの結婚とセツの誕生
成長した湊は、やがて家族を持つこととなります。
嘉永4(1851)年、15歳となった湊は、塩見増右衛門の娘チエと結婚。チエは「ご家中一の器量よし」と言われた美人でした。
チエとの間には、11人の子宝に恵まれます。
そのうちの一人が後年ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻となる小泉セツです。セツは慶応4(1868)年2月4日生まれで、生後7日で親族筋の稲垣家(家禄100石)に養子に出されています。
家族に恵まれた湊ですが、時代の変化は彼を翻弄していきました。
明治2(1869)年、松江藩は版籍奉還。明治4(1871)年には廃藩置県を経て、島根県となりました。
これにより、士族層は家禄を失い生活基盤が揺らぎます。
湊は明治期、旧藩士の娘たちの働き口を作るために機織(はたおり)会社を立ち上げ、家族や縁者を支えようとしました。セツ自身も11歳の頃から織子として働いたことが記されています。
湊を悩ませた晩年の後継者問題
湊が立ち上げた会社は、大阪方面まで販路を伸ばすなど、当初は順調な売り上げを上げていました。
しかし業界全体が縮小傾向にあり、次第に売り上げは低迷。やがて会社は倒産の憂き目に遭ってしまいます。
家運が傾く中、湊自身もリウマチを患って寝込むようになりました。
看病にあたったのは、稲垣家の養女となっていた娘のセツです。湊自身、セツに感謝する言葉を残しています(このとき、親子の名乗りはしていたのか。気になりますね)
この状況で長男・氏太郎は町娘と駆け落ちして出奔。次男は夭逝しており、三男・藤三郎を後継者とします。
ところが藤三郎は勉強や家業をサボり、山野を駆け巡り鳥の繁殖に夢中になる青年でした。
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病床にあった湊は、藤三郎を鞭で叩き「親不孝者め。その腐れ根性を叩き直してくれる」と怒鳴ります。
明治20(1887)年5月、湊は帰らぬ人となりました。享年51。
小泉湊は、武士として誇り高い生き方を追求し、あくまで人のために生きた人生であったと言えるでしょう。
娘・セツは実父である湊への敬愛を生涯抱き続け、その生き方が現代にも伝承されています。
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