奈良・明日香村「菖蒲池古墳」の謎──被葬者は、蘇我蝦夷・入鹿か、それとも石川麻呂か?:2ページ目
被葬者は、蝦夷父子か、それとも石川麻呂父子か?
蘇我本宗家と称される稲目・馬子に継ぐ蝦夷・入鹿親子が、大化の改新の発端となる「乙巳の変」によって滅亡したのは、西暦645年のことである。
『日本書紀』によれば、皇極天皇の飛鳥板葺宮において、中大兄皇子・中臣鎌足らが入鹿を暗殺したのは7月10日であり、翌11日には蝦夷が邸宅に火を放ち、自害して果てたと記されている。
その記述によると、入鹿が暗殺された当日は激しい雨が降りしきり、宮廷の庭に水があふれるほどであったという。斬首された入鹿の遺骸は庭中に打ち捨てられ、筵と蔀で覆われた。その後、中大兄皇子の意向により、蝦夷とともに埋葬が許されたと伝えられる。
しかし、焼け落ちた邸宅の中から蝦夷の遺骸を発見できたのだろうか。また、「両人ともに」とあるのは、蝦夷と入鹿が同じ場所に、共に葬られたと解釈してよいのだろうか。
「菖蒲池古墳」の築造年代は従来、640年前後と考えられていた。だが、約10年前の2015年(平成27年)、隣接する飛鳥養護学校の一画から、一辺70メートルという巨大方墳「小山田古墳」が発見された。
これを契機に、『日本書紀』の記述に従えば、「小山田古墳」を蝦夷の大陵(おおみささぎ)、「菖蒲池古墳」を入鹿の小陵(こみささぎ)とする説が唱えられるようになった。しかし一方で、「小山田古墳」を舒明天皇の初葬墓とする説も有力である。
さらに「菖蒲池古墳」を、大化の改新の際に中大兄皇子側についたものの、649年(孝徳5年)に謀反の罪を問われて山田寺で自害した蘇我倉山田石川麻呂と、その嫡子・蘇我興志(こし)の墳墓とみなす説もある。そう考えれば、石棺が縦に二つ並ぶ構造は、石川麻呂・興志父子の墓と解釈することも可能となる。
いずれにせよ「菖蒲池古墳」は、大化の改新前後の歴史を解明するうえで、最も重要な遺跡の一つといえよう。
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※参考文献
小笠原好彦著 『奈良の古代遺跡』吉川弘文館刊



