手洗いをしっかりしよう!Japaaan

江戸時代、幕府公認で誕生した「吉原遊廓」――江戸最大の歓楽街、その始まりと栄枯盛衰

江戸時代、幕府公認で誕生した「吉原遊廓」――江戸最大の歓楽街、その始まりと栄枯盛衰:2ページ目

吉原の栄枯盛衰

こうして吉原の移転が決まりましたが、翌年に明暦の大火が起こり、吉原は灰燼に帰しました。

関連記事:

明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?

江戸時代は明暦の頃、ある商人の娘に「おきく」という子がいました。その娘が花見の時に見かけた際、ある若者に一目惚れをします。彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖を作りますが、間もなく恋の病に臥せったまま1…

しばらくは茶屋や町屋の建物を借りて営業を行ってから、ようやく日本堤で営業を再開。移転に際しては、着飾った遊女たちをひと目見るため、多くの見物人が集まったといいます。

日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ土手道で、吉原はその中ほどにありました。どこから行くにしても、最後は日本堤を通る必要があったので、いつしか「吉原通いの道」として知られるようになります。

『仕掛人藤枝梅安』の「春雪仕掛針」にも、「吉原の遊里は、山谷堀に沿って西へ行けば、すぐに手がとどく」という記述があります。日中よりも人通りが激しく、吉原が江戸有数の人気スポットだったことが分かりますね。

実際、ここは吉原通いの客をあてにした茶屋や屋台が建ち並び、大いに繁盛しました。

吉原は芝居町とともに「二大悪所」と呼ばれ、日本橋の魚河岸と並んで「1日に1000両が落ちる場所」と称されます。

宝暦年間(1751~1764)が吉原の最も盛りの時期だったとされます。しかしその繁栄にも陰りが見え始めました。

それまでは吉原の独り勝ちでしたが、藩財政の悪化などで大名が堂々と遊ぶのが難しくなったのです。また、幕府非公認の岡場所や宿場に足を運ぶ人も増えてきました。

寛政文化年間あたりになると、もう最盛期ほどの賑わいではなかったと思われます。とはいえ、吉原が江戸っ子の憧れの場所だったことに変わりは無く、文化8年(1811)には214軒の遊女屋が存在していました。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia

 

RELATED 関連する記事