朝ドラ【あんぱん】に登場するマノ・ゴロー(伊礼彼方)のモデルとなった人物「キノトール」の生涯:2ページ目
ラジオ、そしてテレビの時代へ―やなせたかしとの出会いと「怪傑アンパンマン」
戦後、徹の生活に大きな変化が訪れます。
私生活においては、2歳下の産科医・和子(ドクトル・チエコ)と結婚。和子は日本の性医学のパイオニアでもある人物でした。
プライベートが充実したことで、徹の活動にも幅が生まれたようです。
やがて徹は劇団・独立劇場を設立。やがて東京青年劇場を経てテアトル・エコーに入団し、脚本家や演出家として劇団活動を本格化させていきます。
放送作家・三木鶏郎の誘いでNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』の構成作家として参加。人気作家の仲間入りを果たすこととなりました。
1950年代半ばのNHK制作では「脚色:キノ・トール」として名前がクレジット。この頃には筆名を使用していたようです。
当時はまだまだテレビ番組の草創期でした。透のような人物の登場は、放送界において待望だったに違いありません。
昭和33(1958)年、『光子の窓』(日本テレビ)に「構成」名義で参加。この番組は“構成者(=構成作家)”というクレジットが日本のテレビで初めて明示された画期的なものでした。
続いて徹はNHKの『夢であいましょう』にも脚本・構成で関与。歌と寸劇の“段取り芸”をテレビに定着させる一翼を担いました。
舞台面ではテアトル・エコーの結成・運営に深く関わり、翻訳喜劇や新作の上演を重ねます。
昭和31(1956)年には、『勝利者』で芸術祭賞奨励賞を、翌昭和32(1957)年には『人命』で芸術祭賞を受賞するに至りました。
晩年まで続いた「舞台×テレビ」の往還は、やなせたかし周辺とも接点を持つようになります。
徹は舞台版『怪傑アンパンマン』の演出を担当。昭和の大衆芸術を横串でつなぐ作り手として、ジャンルを縦横無尽に越境し続けたことがわかります。
平成11(1999)年11月29日に没。享年77歳。
日本の演劇界と放送界に巨大な足跡と、大きな夢を描いて残した一生でした。
