これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】:2ページ目
病に倒れた後、看病にあたった道鏡を寵愛
孝謙上皇は、光明皇太后が亡くなると、まるで解き放たれたかのように、自由な振る舞いを見せるようになった。
天皇と上皇のどちらの権力が強いかといえば、儒教的な概念が浸透していた日本においては、言うまでもなく上皇である。母・光明子の絶大な権力を引き継いだ孝謙上皇が、自らの権力に目覚めたのは、自然の成り行きであったろう。
しかし、そのことが、やがて上皇と仲麻呂、そして淳仁天皇との関係を徐々に微妙なものとしていったのである。
光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇は淳仁天皇を伴い、飛鳥の小治田宮から近江の保良宮へ行幸した。しかし、その地で上皇は光明皇太后崩御の心労も重なったのか、病に倒れてしまう。
このとき看病にあたったのが、弓削氏出身で法相宗の僧侶・道鏡であった。古代から中世にかけての日本では医学が十分に発達しておらず、病に侵されれば、対処法は神仏に祈る加持祈祷しかなかった。
当時は身分や貧富にかかわらず、人々は病によってあっけなく命を落とすことが多かった。食生活においても栄養の偏りが大きく、そのため奈良時代の平均寿命はおよそ30歳前後と推定されている。43歳であった孝謙上皇にとって、このときの病は命の危機であった。
看病禅師として招かれた道鏡は、上皇に寄り添い手厚い看病を行った。その甲斐があってか、回復した上皇は道鏡をそばにおいて強く寵愛するようになったのである。
