平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【後編】:2ページ目
八条院領のゆくえ
晩年、八条院は自らの莫大な領地をどう残すかに心を砕きました。1204年(元久1年)、庁分の一部を九条兼実の子・良輔に、さらに多くを以仁王の娘に譲ります。しかし運命は皮肉で、その娘はほどなく亡くなってしまいます。
そして1211年(建暦1年)、八条院自身も75歳で崩御。奇しくもその年、彼女の養女であった春華門院昇子も命を落としました。
八条院が築いた広大な荘園は、最終的に後鳥羽天皇の皇女・邦良親王、さらに後醍醐天皇(1288〔正応元〕~1339〔延元4/暦応2〕)へと引き継がれていきます。とくに大覚寺統(だいかくじとう)にとって、八条院領は政治を動かす経済的な基盤となり、南北朝時代の動乱を支える力となりました。
ところが、時代の流れは厳しく、1336(建武3)年に後醍醐天皇の「建武の新政」が崩れると、八条院領の実質的な支配力も失われていきます。八条院が一代で集め、後世へと受け渡した“土地の力”は、やがて歴史の中に溶けていったのです。
京都市右京区・鳴滝中道町にある八条院の墓は、今日もひっそりと佇んでいます。1211(建暦1)年に生涯を閉じるまで、彼女は宮廷政治と荘園経営の狭間で、数奇な道を歩みました。
父の鳥羽上皇、母の美福門院、庇護した以仁王の子女、そして養女の春華門院昇子――次々と大切な人を見送り、最後は孤独のうちに去ったといいます。
しかし、彼女が築き上げた八条院領は、その後も王家の運命に深く関わり続けました。彼女がいなければ、大覚寺統の勢力図は大きく変わっていたでしょう。
華やかな衣をまとった一人の女性が、じつは時代を揺るがすほどの「不動産王」であり、歴史の裏側を動かす存在だった――そう考えると、教科書の行間に潜む人間ドラマがぐっと身近に感じられます。
参考文献:永井晋『八条院の世界 武家政権成立の時代と誇り高き王家の女性』(2021 山川出版社)